2011年7月6日水曜日

再会の夜





 ひとりの夜、仕事をすませてシャワーを浴びて、なじみの大きな本屋さんに出かけ、黄色いお花が咲きみだれた楽しそうな本を一冊買って、それからちょっと一杯ビールをひっかけたあと、あやしげなネオンをかいくぐって、いそいそと映画館へ向かいます。大人になって、東京に出てきてよかったなと思うのはこんなときです。


「動くな、死ね、甦れ!」と「ひとりで生きる」を観て恋をしたパーヴェル・ナザーロフに、「ぼくら、20世紀の子供たち」で16年ぶりに会えました。息がつまりそうなほど蒸しあつい日、池袋の文芸座にて。


 なんにも見ていないような目をして、風に吹きとばされそうなうつろな佇まいでギターをつまびく彼、その顔のまわりの蒼い空気は子どものころとまるで同じで、胸がきゅうと締めつけられました。そして、かつて共演したディナーラ・ドルカーロワとの再会のシーン。塀の中に入ってきて婉然とほほえむ彼女を前にして、思わず顔をそむける彼。そのかすかにゆがんだ目元と口元。内面の激しさと弱さとやさしさがあふれ出るように露わになったその瞬間、性懲りもなく、また彼に恋をしてしまったようです。なにかを堰き止めているかのように、低くおさえめの声も好き。


 映画は、みる、というより、仰ぐ、浴びる、浸るという動詞がぴったりです。わたしにとっては、電子ブックが「本」でないのと同様に、テレビやパソコンでみるものは、「映画」ではなく、別のもの。「映画」には、なにより、暗闇とスクリーンと他人の気配(知人でなく)、もしできれば、そのあとは余韻にひたりながら珈琲かビールをたのしむ時間が必要です。家を出るときから帰るまで、映画を観るまえ観たあと、その一瞬一瞬の心の揺れまでもすべて含めて、「映画を観る」ということに含まれています。


 カネフスキーの映像には、身も心もガッサリと持っていかれていいようにされてしまうので、家に着いたらもうよれよれに疲れていました。闇の中で聞いた、たくさんの歌を耳の奥にかすかに感じながら寝床に倒れこんで、家人に「(灯りが)まぶしい!」「(音楽が)うるさい!」「眠い!」(じゃあ眠れば?といわれた)と大声で文句をいっていたら、いつのまにかなるほど眠っていました。



追伸 今までで一番おいしいビールだ、とアナちゃん(緊急来日)。再会の表参道にて