2021年5月8日土曜日

拾い読み日記 239

   
 よく晴れた日曜日。昼食をたべたあと本屋に寄って、『女の園の星』の2巻を買った。すぐ読みたいけれど、カフェのたぐいはどこも混んでいるような気がしていく気になれず、そのへんのベンチに座って、すこし読んだ。スーパーで食材とお酒を買い、帰り道、またそのへんのベンチに座り、すこし読んだ。
 
 昨日は、気圧のせいかからだがだるかったが、フリードリヒ・キットラー『書き取りシステム1800・1900』を開いてみた。ボリュームに圧倒され、あんまり集中できない。理解できないところも多い。文章がわかりにくい。読み進める、というよりは、うろつきまわる、みたいにして読んでいこう、と思う。
 フーコー「幻想の図書館」の引用に惹かれ、本棚から『フーコー・コレクション2 文学・侵犯』を探し出して、読んでみた。同じ箇所を読んでも、さほど惹かれず、あれ?と思った。しかし、そのあとにつづく文章を、何度か、目で追った。

 夢見るためには、目をつぶるのではなく、読まなければならない。ほんもののイマージュは、知識なのである。

 このところは落ちつかず、さまざまな情報にのまれ、不満も不安もいっぱいで、息苦しいような感じがする。何もかんがえたくないときは、パソコンでゲームをしている。オセロも五目並べも飽きたので、「落ちゲー」というやつ。かなり高得点を叩き出せるようになった。スマホでゲームをしている人が理解できない、と長らく思っていたが、今では、理解できなくもない。

 それでも、どうにかして、本を読みたいと思う。

2021年5月4日火曜日

拾い読み日記 238

 
 窓を開けると木の中にはいりこむような感じになる。ときどき鳩に会う。木の中にいる鳩は、ずいぶんくつろいで、羽づくろいしている。へんなかっこうをすることもある。孔雀みたいに羽を広げてみたり。一度鳴いているところをみた。すぐそこにいるのに、どこかよそから聞こえるような、ふしぎな声。路上で鳩を見かけてもときめくことはないが、木にいる鳩を見ると、うれしい。愛らしい。南桂子の絵みたいだ、と思う。
 
 このところ、吉田健一の『わが人生処方』を、拾い読みしている。

 ジイドの「背徳者」に主人公がどこかの公園でホメロスの数行を読んでその日はそれだけで充分だと感じたといふ一節がある。さうあるべきであつて言葉といふものにはそれだけの力があり、その余韻が響くだけの生活が、それは結局は生命力が自分になければ再び前に戻つてその方を手に入れることに専念すべきである。(「本を読む為に」)

 スマホはほとんど見なくなったけれど、まだ、文字を読みすぎている、と感じる。もっと余白がほしい。言葉を響かせるための余白が。

2021年4月30日金曜日

拾い読み日記 237


 『「利他」とは何か』を読んだあと、國分功一郎『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』を読んだ。とてもおもしろかったので、スピノザ『エチカ』(岩波文庫)を買ってみた。

 定理四八 精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意志は存しない。むしろ精神はこのことまたはかのことを意志するように原因によって決定され、この原因も同様に他の原因によって決定され、さらにこの後者もまた他の原因によって決定され、このようにして無限に進む。(下線部は傍点)

 意志の自由はなくても、自由に生きることはできる。自分をほんとうの意味で自由にする、そのやりかたを試してみたい。
 『はじめてのスピノザ』は、わかりやすく、親切な本だった。伝えたい気持ちの強さに、打たれた。

 最近、木に、ヒヨドリや鳩だけでなく、メジロがやってくるようになった。メジロは、声もからだも、とても小さくて、うごきがはやい。風のように飛び去っていく。鳩みたいに、木の上で小一時間もくつろいだりしない。白いアイラインがキュートな、なかなかクールな小鳥だ。

2021年4月24日土曜日

拾い読み日記 236

 
 本の資材見本を購入するため、ある町へ出かけていった。そこは、むかし乗り換えなどで利用していた駅なので、なつかしい気持ちもあって、用事が済んだあと、しばらくぶらぶらした。駅前の喫茶店も、無口な女性がやっていたお好み焼きバーも、見つからなかった。そこはなつかしい、しらない町だった。
 ときどき立ち寄っていた古本屋に、寄ってみた。入ってみると、雑然として、すべての本が、うすよごれて見える。ふだん水中書店の棚を見慣れているせいか、古本屋というのは、手をかけないとこうなるのか、と思い知った。まるで本の墓場のようで、どうにもさみしい気持ちになった。
 むかしはなかった白っぽいカフェに入ってみた。注文の際、ケーキはどのくらいの大きさですか? とたずねると、白衣を着た女性が、大きくも小さくもない大きさです、と応えた。アイスカフェオレはうすかったが、ロールケーキはおいしかった。

 帰りに本屋にいきたくなって、池袋のジュンク堂へ。本がきれいで棚がいきいきしていて、それだけで、うれしい。池袋は、大学生や高校生が多い。棚の前で男女の二人組がうだうだしている。カップルではないので、それぞれ好きかってに本を見たりはしない。棚の前でうわさ話をしていたりするので、じゃまだった。年をとって、こころがせまくなっているのかもしれない。
 国文学の棚や詩歌の棚で、装幀のバランスや箔押しの感じを見たりする。自分が装幀した本も、表紙が見えるように並べてあって、それも確認する。家で見る感じと本屋で見る感じは、ちょっとちがう。
 ずいぶんなやんだけれど、詩歌の棚から、岬多可子『静かに、毀れている庭』をえらんで買った。

 夕方の公園では、みんながピクニックしたり、外でのんだりしていて、祝祭感があった。
 
 夜は夫と晩ごはん。「休業要請」と「休業の協力依頼」をめぐって、あれこれ話した。いったい、なんなのだろう。結局、のみすぎたようだ。
 

2021年4月18日日曜日

拾い読み日記 235

 
 よく晴れて、風のつよい日曜日。木は、一日中、揺れていた。光りながら踊りくるう生きもののようで、目がはなせない。枝葉のあいだから、きれはしみたいな青空が見えた。

 今日の読書は『「利他」とは何か』。伊藤亜紗さんの章を読んだ。まわりに対して、どこかこわばっていた気持ちが、すこし、ときほぐされたようだった。

 古本屋さんで、ピーターラビットの絵本をまとめ買いした。この春、ピーターラビット愛が高まっている。ポターの描くどうぶつたちのからだは、しなやかで、やわらかそうで、さわってみたくなる。絵だけでなく、こんな音にも、動物たちのうごきがみごとにあらわれている。
 
 ぴた ぱた ぱたり ぱた、ぴた ぱた よたり ぱた!

 あひるが一列になってあるいてくる。それを3匹の子猫が見ている。あひるが猫の服を拾って着て、また同じ足どりで、しれっと帰っていくところが、よかった。「や、いいおてんきで。では、さようなら」

 この春、ピーターラビットのTシャツまで買ってしまった。どのように着こなせばよいのだろう。

2021年4月17日土曜日

拾い読み日記 234

 
 くもり、のち雨の土曜日。製本したり、装幀のラフをつくったり。思ったより早くおわったので、ゆっくり過ごす。ゆっくりが大事。

 蜂飼耳訳の『方丈記』を読んだ。現代語訳で読んでから、原文で。組みがいいのか、すらすら読める。あたまのなかに流れることばがここちよい。

 いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしも此の身をやどし、たまゆらも心をやすむべき。

 これは、もっとも心をひかれた文章、というよりは、このところぼんやりかんがえていたこと、そのままだった。

 それから、大根を煮ながら、ギッシング『ヘンリ・ライクロフトの私記』を読み始める。以前持っていたのだが、昨日、買い直したのだった。このところの読書傾向のあらわれが、あまりにもわかりやすすぎて、じぶんでもどうかと思う。
 鴨長明と、同じことをいっている、と何度か思った。鴨長明は、アン・モロウ・リンドバーグと同じことをいっていた。

2021年4月14日水曜日

拾い読み日記 233

  
 遅く起きた朝、うちころされる夢をみた、と夫にいうと、そういう夢、よくみるね、とあっさり返される。たしかに、逃げまどう夢とか追いつめられる夢はよくみるけれど、最近はあまりみていなかった。夢のなかでうちころされて、しんだらしいけれど意識はあって、その、銃を持った男になにか仕返しして、こわがらせてやろう、と思ったことはおぼえている。
 気圧のせいか、季節のせいか、眠くて眠くてしかたがない。疲れているのだろうか。ときどき夫は、おれらも年だから、という。おれとおまえは年がちがうだろ、と思うが、あえていわない。

 昨日買った小津夜景『いつかたこぶねになる日』をすこし読む。すごくおもしろい。おもしろいのに、すこししか読めない。あした、また読もう。

 確定申告もぶじにおわり、ほっとして、いきつけのイタリアンへ。蛤と筍と春キャベツのクリームリゾットがおいしくておいしくて、誰かに、おいしいね、といいたくてたまらなかったが、ひとりなので、あたまのなかで、おいしい! おいしい!とさけんでいた。

 スマホをほとんど見なくなった。オセロが強くなりつつある。