2022年5月13日金曜日

拾い読み日記 273

 
 この10年ほど、テレビのない生活をしている。若い俳優やアイドルの顔も名前もほとんどわからないが、2年くらい前に夫がSnow Manのことを教えてくれて、それから、ふたりでときどきダンスの動画を見たりしていた。そろっていて、いいね。かわいいね。とかいいあいながら。集団で、そろっていたり、がんばっていたり、たのしそうにしていたりする様子をみていると、こころがなごむ。「11ぴきのねこ」みたいだな、と思う。
 9人もいて、背の高いラウールくん以外、とてもおぼえられそうにない、と思っていたのに、いつのまにか、全員の顔や名前だけでなく、趣味や特技まで知ってしまった。ザリガニ釣りが得意、とか、円周率が100桁いえる、とか、べつに知る気もなかったのに。
 ある動画で、ライブへの意気込みを聞かれたメンバー何人かが、「爪痕を残したい」といういいかたをしていて、へんなの、と思った。爪痕を残す、といったら、被害をあらわすときとか、悪い意味で使うものだと思っていたら、最近は、印象づける、みたいな意味でも使われているらしいのだった。
 それで、20代のときに読んだ詩の一節が、あたまをよぎった。

 人はたったひとつの自分の一生を生きることしか出来なくて
 あといくつかの他人の人生をひっかいたくらいで終わる
 でもそのひっかきかたに自分の一生がかかっているのだ
 それがドタバタ喜劇にすぎなかったとしても

 谷川俊太郎「午前二時のサイレント映画」より。この詩が載っている『世間知ラズ』という詩集は、刊行されたころに買ったけれど、手放して、ずいぶん経っていた。それを、3月にSUNNY BOY BOOKSで見つけて、なんとなく、また読んでみたいな、と思って買った。

 「そもそも人生には、目的なんてない。人生は続くこと、それ自体に意味があるのです」。このあいだサニーでもらってきた「AFTER2025」というフリーペーパーに、ティム・インゴルドのインタビューが載っていて、近ごろ考えていることと通い合うところがあったので、本棚にある『生きていること』を手にとってみた。読むかどうかは、まだわからない。

2022年5月7日土曜日

拾い読み日記 272


 このあいだまでくたくたで、何も作る気がしない、ましてや仕事など、と思っていたのに、今朝は目ざめた瞬間から、やる気がみなぎっていて、あふれそうだった。
 いったい何があったのだろうか。昨日、三軒茶屋で、ことばを交わしたひとびとのおかげかもしれない。それとも、たまたま出くわした「テル子女神像」(怖かった)のご利益?なのだろうか。からだも軽い気がする。

 千葉雅也『現代思想入門』を読んだ。思想についての本、というよりは、生き方の本として読んだ。過剰で、虚ろで、もやもやしていて、いいかげんなじぶんでも、この先もどうにか生きていけそう、という気分になった。

 世界は謎の塊ではない。散在する問題の場である。

 もっと書き留めておきたいが、今日はこれだけ。
 
 次につくる本のタイトルを思いついた。
 窓を開けて木を見ていると、すぐ近くにシジュウカラやメジロがやってきて、いい日だなあ、とうれしくなった。

2022年5月6日金曜日

さざえ尻まで


 詩集をデザインしました。
 『さざえ尻まで』(思潮社)という、新井啓子さんの本です。さざえ尻、というのは、くるくる曲がりくねっていて、しだいに細くなる道のこと。
 詩をよんだときに感じた、色や、温度や、手ざわりが、本のかたちにあらわれていたら、うれしく思います。
 装画は鈴木いづみさんです。編集は藤井一乃さん。ありがとうございました。

 


2022年4月16日土曜日

拾い読み日記 271

 
 ようやく、本が読めるようになった。
 本を作ったり、売ったり、デザインしたりしていて、そのことに追われて、疲れはてて、ほとんど、本が読めなかった。読めない、書けない。ものを考える時間もない。

 買っておいたスーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』を読む。

 われわれの同情は、われわれの無力と同時に、われわれの無罪を主張する。そのかぎりにおいて、それは(われわれの善意にもかかわらず)たとえ当然ではあっても、無責任な反応である。戦争や殺人の政治学にとりまかれている人々に同情するかわりに、彼らの苦しみが存在するその同じ地図の上にわれわれの特権が存在し、或る人々の富が他の人々の貧困を意味しているように、われわれの特権が彼らの苦しみに連関しているのかもしれない——われわれが想像したくないような仕方で——という洞察こそが課題であり、心をかき乱す苦痛の映像はそのための導火線にすぎない。

 日々の労働に追われて、刺激にばかり反応して、本を読む気力をうばわれるのは、あやういことだ。(それは少し前の自分だ。)
 ラジオから中森明菜の歌う「スローモーション」が聞こえてきて、窓の向こうでは若葉がきらきら光っていて、読みたい本がたくさんあって、いまは土曜のお昼で、もうそろそろこの画面の前から立ち去りたいと思っている。立ち去る前に、パソコンの電源を切るだろう。見たくないことから目を背けるために、ではなく、理解も想像もできないものに近づいて、考え続けるために。
 
 

2022年3月20日日曜日

16年目

 
 SUNNY BOY BOOKSでの「春の手紙」、ぶじに終了しました。
 お店で、オンラインで、見てくださったみなさま、どうもありがとうございました。

 木が芽吹いて、花も咲いて、ものごともうごきだす春ですが、いまは、ねむくてねむくてたまりません。ゆっくりやすんで、また、つくりたいものをつくろうと思います。
 16年目、と書いたけれど、いまは、その数字をゼロにもどして、あたらしく、はじめたい気持ちです。
 
 SUNNY BOY BOOKSという、あかるくひらかれた場所に、あらためて感謝します。

 最後に座右の一節を。

どこかへ出かけようが、出かけまいが、目的地へつこうが、ほかのところへいってしまおうが、それともまた、どこへもつくまいが、ぼくらは、いつもいそがしい。そのくせ、これといって、特別のしごとがあるわけじゃない。そして、一つのことをやってしまうと、また、なにかやることがある。だから、それをやりたきゃ、やるもいいさ。だけど、やらないほうが、まだいい。ねえ、きみ、ほんとに、けさ、なにもすることがないんなら、いっしょに川をくだって、一日ゆっくり、あそんでいかないか?ケネス・グレアム『たのしい川べ』石井桃子訳(岩波書店)より)

2022年3月10日木曜日

拾い読み日記 270

 
 え、と思うほど、それはちいさかった。種みたいなもの、花みたいなもの、うつわみたいなもの、糸、透ける布、これは、ひとの爪? いや、そんなわけはなくて、なにか、ささやかな、なにかの痕跡。
 ぼうぜんとしていたと思う。ちかよってみたり、はなれてみたりした。そっと、それらをふきとばしてしまわないように、しずかに。そのものの大きさと、とりまく景色がすこし変わった。あたらしく、あらわれつづけているようだった。
 それがなにかはわからないままに、これはじぶんのためにつくられたのだ、ということは、わかった。ここに、いまいる、わたしのために。これまでいきてきて、ようやく、ここにやってきた、わたしのために。きっと、いわわれて、いのられている。
 もっといろいろなことを、たくさん、ふかく、感じたかったけれど、できないうちに、時間がきた。うながされ、身をかがめ、それらとわかれた。

 帰りに入ったカフェで、持ってきた白い本をひらこうとしたが、近くの席で数名のやり手っぽい人たちが、自動車業界におけるSDGSの話をしていて、そのはきはきした声がやけによく聞こえるので、読めなかった。

 今日のなごりに、白くて四角い石みたいなおもたい本を買って帰って、駅に着いて、いきつけのお店でひらこうとしたが、隣で若い男女が、奨学金の返済や自己破産の話をしていたので、気になって、読めなかった。

 帰り道、沈丁花の花がにおって、夜道がきよらかなものになった。

 このところ、じぶんのための精神的な居場所を、じぶんの手でつくることについてかんがえていたけれど、それは、遍在するものなのかもしれない。つくろうとして、つくれるものではないのかもしれない。

2022年3月7日月曜日

「春の手紙」はじまりました




 SUNNY BOY BOOKSでの展示「春の手紙」、ぶじに、はじまりました。

 今回つくったのは、まず、『はるのこと』というちいさな冊子です。春の言であり、春の事です。歳時記から、春の季語をえらんで刷りました。季語だけでなく、春の句からえらんだことばもはいっています。のたりのたり(春の海)とか、ぽたりぽたり(椿が落ちる音)とか。
 ひらがなだけの冊子です。ひらがなにひかれていることについては、『水草』2号に書きましたので、あわせてよんでいただけたらいいなあと思います。ひらがなは、余白が多いし、曲線が多いし、意味もぱっとつかみにくいところが、すきです。
 自分で活字を組んで、半紙に刷りました。帯みたいなケースがついていて、ピンクか、水色か、黄色(黄緑色?)から、えらんでもらえます。
 ばたばたと、制作に追われてしまい、今もあたまが、うまくはたらきません。展示のためにつくった、ほかのものについては、おいおい、また書いていけたらと思っています。

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 最近、窓からみえる木に、よくヒヨドリがやってきます。姿のみえないほかの鳥と、さえずりを交わして、聞いたことのない鳴き方をして、気をひいているみたいで、とても、かわいらしいのです。ちなみに、「さえずり」は、春の季語です。

 昨日は、ほんとうにひさしぶりに、たくさんねむって、ひといきつく時間ができたので、本をひらいて、片山廣子の「鳥の愛」というエッセイを読みました。ちいさないきものによせる深い愛情に、いつ読んでも、こころうたれます。ちいさな、はかないいきもの、というのは、何も小鳥だけのことではなくて。
 
 電車に乗つてから明るい心で私は念じた、野の鳥と籠の鳥をまもつて下さる神様、どうぞ人間も、苦しんでる人も悦んでる人も守つて下さい、どこにゐても。(『新編  燈火節』より)

 制作に集中するために、知ることも、かんがえることも、想像することも、休んでいました。自分にも、世界にも、うまく関われていない感じがします。思いはことばにならず、祈りかたもわからず、今は、できるだけこころをしずめて、紙を折ったり、綴じたりしています。
 〈本〉や、ことばや、詩人が、信仰の対象ではないけれど、では、そうではなくて、なんだろう、ということを、最近かんがえています。

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 感染症対策として、オンラインでも、あたらしい本や展示したものをごらんいただけます。
 (サニーチームのみなさま、テキパキとうごいてくださり、ありがとうございます)
 
 なかなかお目にかかることはかなわないかもしれない3月ですけれど、手紙を書く/手紙が届くために必要なのは、何よりも、距離ではないか、と思っています。だから、ちょうどいいのかもしれません。近すぎると、手紙は、書けません。

 また、書けたら書きます。