2021年6月21日月曜日

拾い読み日記 250

 
 カレー屋でカレーを待つあいだ、いつものように、新聞を読んでいた。林明子さんの『こんとあき』をめぐる記事があり、なにげなく読み始めたら、ある名前に目がとまった。「担当編集者で、後に夫になった征矢清さん(故人)」とある。
 帰ってから、『征矢泰子詩集』の年譜の一行を確認する。「一九六四年 みすず書房時代からの親友、征矢清と結婚。」 どうやら、同一人物らしい。征矢清さんは、児童文学作家でもあった。

 そんなわけで、ひさしぶりに征矢泰子の詩を読んだ。「六月のかたつむり」。せまりくるものにおしつぶされそうな今日、この詩をよめたことは、幸運だった。ひとつの詩が、ひとりのわたしに、あるとき、手紙のように届くということ。

 六月のあさ
 まだ海はとおい
 にびいろのそらのした
 やけつくすなはまの貝になりたい
 六月のかたつむりいっぴき
 どうどうめぐりのひびをせおって
 みじかいはるのなかもえつきたはなのあと
 ゆっくりと海をめざす
 きのうのあめにぬれたこのしたくらがり
 きららかなまなつの海へのあこがれに
 こえもなくからだあつくして
 六月のかたつむり あるきつづける

2021年6月20日日曜日

拾い読み日記 249

  
 ワンタン麺がたべたくてそのラーメン屋に行ったのに、券売機を見ると、ワンタン麺のボタンがない。白い紙で隠されている。メニューが変わったらしい。昨夜、その券売機の画像まで検索して見たくらい、ワンタン麺がたべたかったのに。かなりうろたえたが、いらっしゃいませといわれ、ひきかえすのもはばかられて、ワンタン麺ではないラーメンをたべた。麺はちょっとゆですぎのような気がしたが、まずいわけではなかった。でも、もう行かないと思う。

 午前中、岩佐なをさんの詩集『ゆめみる手控』をめくってみたら、ラーメンの詩があった。「そぎ」という詩。
 
 そぎとられた肉や
 釜で煮込まれた骨
 切りとられた葉物
 謎の朱いうずまき
 をおそれぬあまり
 いつくしみも捨て
 ああいいにおいと
 口走ってしまう罪
 をゆるしたまえ
 ラーメン

 うどんも、そばも、パスタも、フォーもすきだけれど、たべたくなって画像検索するくらいなのは、ラーメンだけだ。ラーメンの何が、そこまでじぶんをひきつけるのだろう。カロリーとか、塩分とかをかんがえると、すこし、背徳的な感じもする。あと、詩に描かれているような、野蛮な感じ。そこがいいのかもしれない。麺をすくってすするという行為も、ワイルドといえなくもないような。なるとのうずまきを、いつも、「の」みたいだ、と思う。

2021年6月16日水曜日

拾い読み日記 248

 
 ホン・サンスの『逃げた女』をみた。

 家を出た彼女は、「先輩」に会いにいく。そこで、話したり、食べたり、飲んだりして、たのしい時間をすごす。どこか不穏な出来事も起こる。彼女はみる。のぞきこむ。かいまみる。窓をあけて外をみる。それから、彼女は歩く。歩いている彼女は、なんとなくたよりなくて、どこかに向かっていても、あてもなくさまよい歩いている人みたいだった。
 映画館を出てまた歩き出した彼女は、手の中の小さな画面をのぞきこむ。それからふたたび、逃げ込むように、スクリーンの前に戻ってくる。海。エンドロール。
 彼女とともに、映画館にとりのこされたのだ、と思った。

 それにしても、映画をみた感じがしない。なんなのだろう。よくわからない。
 不安定な彼女と、不安定な自分が、たまたま会って、時間をすごした。おもしろかった。ときどき、退屈だった。まるで、ほんとうに人と過ごしているときみたいに。昂揚と、物足りなさと、なまあたたかい感じが残った。人と会うのはつかれる、言わなくてもいいことまで言ってしまうから。たしかそんなことを、彼女は言った。

 ふらふらした彼女は、いくつかの再会によって、何かをみつけたのだろうか。スクリーンをみつめる表情は、とても微妙で、複雑で、それだから、忘れがたい。

 帰りの電車で、『ヴァレリー文学論』を、すこしだけ読んだ。

2021年6月14日月曜日

拾い読み日記 247

  
 どうもこのところ、あたまがとっちらかっているような気がする。たくさんの本を、開いたり閉じたりしている。何を探しているのだろうか。

 一昨日、二羽の鳩が木にやってきた。二羽の鳩は、そっくりだった。いつも同じ鳩が来ているのでは、と思っていたが、それはロマンチックな妄想だった。目印にしていた首の縞々、それは雉鳩の特徴のひとつだった。そんなことも知らなかったのだ。半世紀近く生きてきたのに。

 読んでいるのは、ノーラ・エフロン『首のたるみが気になるの』、『永瀬清子詩集』、キャロリン・ハイルブラン『女の書く自伝』、北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』など。
 もうすぐ50歳、と思うと、なんだか、不安にも憂鬱にもなったりするが、そういうものを感じていないふりをするよりは、じっくり向かい合って、まるめこんで、壁にでもぶつけて粉々にしたい。そして、のこされている時間を、たいせつなことに使いたい。

 日々に私の失うものを見つめて
 すべてのことを忘れがたいのです。
 自分の責任で冒険しようと心はつねにあせるのです。(永瀬清子「私は」)

2021年6月6日日曜日

拾い読み日記 246


 どの本を読んでも、はっとするときがときどきあって、そういうときは、たぶん、躁状態なのだろう。ひらいた本に自分がひらかれていくような感覚がある。さまざまな興味や関心や欲望が、自分のなかに眠っていることを知る。それらは、まとまることなく、ただひろがっていく。読書によって、自分を見いだす。同時に、自分を見失う。
 「私は読み、そして夢想に耽る……。してみれば読書というのは、ところかまわぬわたしの不在なのだ。読むというのは、いたるところに遍在することなのだろうか」ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』を読んでいる。ページからページへ、漂うように読んでいる。いや、読んでいる、ともいえないのかもしれない。

 柿の実が、青くて小さくてとてもかわいらしいので、その大きさを毎日確認している。
 


2021年5月29日土曜日

拾い読み日記 245

 
 美術館を出たあと、海を見にいこう、と思い立って、南の方にむかって歩いた。15分ほど歩くと公園があって、子どもたちがあそんでいた。野球場もあった。海のそばの野球場って、なんだかいいなあ、と古そうなスコアボードを見あげて思った。小高いところに出て、そこから海が見えるのかと思ったら、富士山が、ぬっとあらわれた。今までに見た富士山のなかで、いちばん綺麗だ、と思った。ぼうっとかすんで、光って。あそこに神さまがいる、と信じる人の気持ちもわかる。
 知らない町で、たくさん迷って、つかれていたので、海はいいか、と一瞬あきらめかけたが、気をとりなおして、また歩いた。

 ひさしぶりの海を前にすると、こころぼそい気持ちになった。なんで来たのかな。来てよかったな。気持ちも波みたいに、いったりきたりする。
 そういえば、最近、海の俳句を探して読んでいた。

 夏の海水兵ひとり紛失す  白泉

 5月の海では、波乗りの人が、あらわれたり消えたりしていた。

2021年5月27日木曜日

拾い読み日記 244

 
 『ニューヨークで考え中』がおもしろかったので、気になりつつもなんとなく手を出せずにいた近藤聡乃『A子さんの恋人』の1巻を3日前にふと買ってみたら、ものすごくおもしろくて、二日前に2巻から4巻までを買い、昨日5巻から7巻までを買い、すべて読み終えて、今は、ぼうぜんとしている。
 すでに完結している漫画は、あっという間に読んでしまえる。待つ時間がほとんどない。もっとはやく読んでいれば、次の巻を待つたのしみを味わうこともできたのに。長い時間をいっしょにすごすこともできたのに。
 とはいえ、読めてよかった。ともに語り合いたいので夫にも読ませたいが、今はいそがしいようだ。このへん読んでみて、おもしろいでしょう、とチラ見せしている。

 物語に夢中になるというのは、さらわれることに似ている。帰ってきたばかりで、ぼうぜんとしている。