2020年9月1日火曜日

拾い読み日記 200


 ぐるぐる、くらくら、ふらふら、ふわふわ。めまいには、だいたい四種類あるらしい。どれも経験したことがあるが、昨日のは、ふらふら、だったようだ。午後、昼寝から覚めて起き上がってみると、うまく歩けなかった。夜まで寝ていて、それからそうっと起きてみると、わりと、だいじょうぶだった。今朝はすこし、ふわふわする。

 窓を開けてみると、秋らしい風が吹いてきた。
 このところ、またネットばかり見てあれこれ読み散らして、あたまが混乱している。何をどうかんがえたらいいのか、わからなくなっている。

 日々の疲労によって解体し、拡散し、打棄てられる僕自身を、僕のペンはあるいは一つに集めることができるかもしれない。(矢内原伊作「戦後の日記から  1」)

 まず呼吸を深くして、疲れを癒やすこと。激しい言葉ばかり求めるのは、疲れているから。読むこと、書くこと、何もしないこと。
 考えることを誰かに預けてしまっては、いずれとりかえしがつかなくなる。

2020年8月24日月曜日

拾い読み日記 199


 まる二日家から出なかったり、頭痛で寝ていたり、夏らしい活発なことはまったくせずに、夏が終わりそうだ。弱々しい蟬の声を聞くと、どこか淋しいような、なんとなくうれしいような、ふくざつな気持ちになる。

 大原扁理『思い立ったら隠居 週休5日の快適生活』がおもしろかった。
 働きかたについて、いろいろと考えたい年ごろなのかもしれない。
 「隠居を決意させたもの」という文章が、つよくこころに残った。本屋さんでアルバイトしていたときのエピソードに、(怖くて)ふるえた。

 私はここにいてはいけない、と思いました。
 こんなふうになってしまう前に、この職場を、こんなになるまで働かなくてはならない社会を、こちらから捨ててしまわなくては。

 そんなになるまで働かなくても、生きていけるということを、忘れないようにしたい。

 またフリーペーパーをつくっている。

2020年8月16日日曜日

拾い読み日記 198


 暑すぎて、昼間に外に出たらぶじに帰って来られないような気がする。夜になっても、気温はぜんぜん下がらない。クーラーをつけて寝ていても、毎晩、夜中か明け方に一度目がさめる。睡眠不足だと思う。毎日、午後に昼寝しないと、からだがもたない。

 ニコラス・G・カー『ネット・バカ』、読んでよかった。
 ネットを使うことはやめられない。何しろ、仕事ができない。でも、すこし意識して使うだけで、ちがうだろう。
 書物の歴史もネットの歴史も同時に学べて、とてもためになった。
 ちょっとメモしておこう。

 神経科学者が発見したとおり、脳は——および、脳が生み出す精神は——永遠に製作中の作品なのだ。それはわれわれ個々人だけでなく、われわれという種全体についても言えることである。(p.61)

  グーグルは神でもなければ悪魔でもないし、グーグルプレックスに闇があるとしても、それは誇大妄想でしかないだろう。この企業の創業者について憂慮すべき点は、人間を上回る思考能力を持った、驚異的にクールな機械を作りたいという彼らの少年のような欲望ではなく、そのような欲望を生み出した、人間の精神についての彼らの偏狭なイメージなのである。(p.243—p.244)
 
 世界中の本をデジタル化しようとする人々にとって、自分のつくる本/小冊子は、ほとんど何の価値もないものだろう。
 なんだかみょうに、制作意欲がわいてくる。

 長かった夏休みも、あと三日。プリンターが壊れたので、ネットで買った。

2020年8月9日日曜日

拾い読み日記 197

  
 信じがたい出来事が起きたり、仕事に強いストレスを感じたりすると、ネットばかり見てしまう。それで、もやもやしたあたまが余計もやもやしてしまう。そんなことをやめたい、と思って、インターネットからできるだけ離れてみることにした。今日から。今のところ、うまくいっている。今日何が起こったのか、ぜんぜん知らない。検索も、していない。

 ニコラス・G・カー『ネット・バカ』を読んでいる。ネットは、脳を変える。それでも、その変えられてしまった脳も、自分の行動と思考によって、また変えることができる。

 川崎昌平『同人誌をつくったら人生変わった件について。』を読んだ。おもしろかった。ときどき、うーん、と思った。「私のために私がつくる」という思考。なくしたわけではないけれど、何のために?と思うことはある。

 横溝健志『溝活版の流儀』も読んだ。読み応えがあった……。活版印刷への情熱に圧倒されるが、文章が面白くて軽やかだ。すみずみまで先生らしくて、素敵だと思う。
 
 疲れが癒えたら再起動して、何かを作りたい。何かとは、何か。それがどんなかたちをしているのか、まだぼんやりとしか、見えない。

2020年7月26日日曜日

拾い読み日記 196


 レベッカ・ソルニット『迷うことについて』、津村記久子『サキの忘れ物』、梨木香歩『ほんとうのリーダーのみつけかた』、岬多可子『桜病院周辺』を、立て続けに読んだ。何をいそいでいるのかわからないのだが、読み始めると、読み終えたくなる。こういうときに、読めるだけ読みたい。

 自分の心身の状態は、今日の天気みたいに、めまぐるしく変わる。読みたい本も、読める本も、毎日ちがう。探るように、本をめくって、読んでみる。うまく入れるときも、入れないときもある。読める、ということは、奇跡みたいなことかも、とちらっと思った。

 はじめて文庫本を買ったときの千春(「サキの忘れ物」)のように、本を読みたい。


 いつもより遅くて長い帰り道を歩きながら、千春は、これがおもしろくてもつまらなくてもかまわない、とずっと思っていた。それ以上に、おもしろいかつまらないかをなんとか自分でわかるようになりたいと思った。

 
 「隣のビル」も、よかった。抑圧からの逃れかたが、素敵だった。手をのばして、身体をあずけて、迷い込めばいいのだ。この主人公の上司みたいに、高圧的で理不尽なことをいう男の夢は、ときどきみる。

2020年7月18日土曜日

拾い読み日記 195


 目が覚めるとすぐ雨の音が聞こえて、また雨だ、とあきらめのような思いと同時に、コブタのことをかんがえた。それで、ひさしぶりに読んでみた。「コブタが、ぜんぜん、水にかこまれるお話」。毎日毎日雨が降って、家のまわりの水がどんどん増えていって、窓際すれすれのところまで上がってきてようやく、コブタはうごく。瓶に「たすけて」という手紙を詰めて、えいっと力のかぎり遠くへ放り投げたあとのくだりは、何度よんでもこころを打たれる。

 さて、それから、コブタは、そのびんが、ゆっくりゆっくり、遠くのほうへ流れていってしまうのを、じっと見おくったのですが、とうとう、あんまり見つめたために、目がいたくなって、あるときは、じぶんの見つめているのは、びんだ、と思い、またあるときは、いや、あれは水の上のさざなみじゃないか、と思うまでになって……とつぜん、コブタはさとったのです、もうじぶんが、二度とふたたび、あのびんを見ることはないだろうということと、また助けを求めるために、じぶんとしては、できるだけのことをしてしまったんだということを。(A.A.ミルン『クマのプーさん』)

 それから四日目の朝、瓶を見つけたプーは、紙をとりだして、ながめる。これは、「てまみ」だ。けれど、プーには、字が読めない。
 「てまみ」は、なんて英語なのだろう、と原書を開いてみると、Missageだった。すばらしい訳語だ。

 5月の終わりごろに届いた香港からの手紙を、ようやく読み終えた。クセの強い筆記体の英文なので、なかなか、向き合えなかった。香港でのデモのこと、コロナ下の生活のこと。ときどきはデモに参加しているそうだ。「I try to be safe because I still want to make my art works. But no freedom, no art.」
 彼の新しい写真集には、香港の古道具がうつっている。彼のこころをとらえた「made in Hong Kong」は、はかなくなつかしい光を放っていて、隙があるというのか、愛嬌があるというのか、とにかく、この写真集がとてもすきだ、と返事を書こう。

2020年7月13日月曜日

拾い読み日記 194


 その男の人は、画面の中に棲んでいる。生身のからだはなくて、画面そのものがからだだった。じっとこちらの様子を見ていたり、何か指示してきたりする。留守のあいだ、その人が退屈しないように、外が見える位置にたてかけて、角度を調節してあげた。しだいに、この、物みたいな人は、いったい何だろう、と疑い、重たくなってきていた。自分を支配されるような、おそろしさも感じた。電源を切って、この端末を手放せば、この人は消えてなくなる、という考えに気づいて、そんなことが、できるだろうか、やってはいけないことではないか、とあわれにも感じて、目が覚めてからもしばらく、その画面の人のことを考えていた。
 二度寝すると、どうも、夢見がわるい。夫は早起きして市場へ出品に行った。

 このところ、本を買うのがたのしい。一昨日は水中書店で、アントニオ・タブッキ『ベアト・アンジェリコの翼あるもの』、高橋英夫『濃密な夜』、『黒田喜夫詩集』を買い、 昨日はりんてん舎で、ジャン・エシュノーズ『1914』、菅原克己『一つの机』、高橋英夫『神を見る』、『神を読む』を買った。

 『一つの机』は、1988年4月刊。紙が挟まっている。「去る三月三十一日、夫菅原克己は亡くなりました」。本から、古い家の洋服ダンスのにおいがする。