2024年5月22日水曜日

拾い読み日記 303

 
 「ひかりに出あう」という詩を見つける。

 くるしみもだえて
 おまえを のがれる
 おお ひかりよ。が その
 おなじみちで また おまえに出あう。

 司祭であり修道士であるダヴィデ・マリア・トゥロルドの詩篇を、須賀敦子が訳して、『どんぐりのたわごと』に載せたもの。『須賀敦子全集』第7巻(河出文庫)から。

 
 「ひかり」に目がとまったのは、このところ、なんども、宇多田ヒカルの「光(Re-Recording)」を、聞いていたせいかもしれない。
 20年ほど前の、最初のバージョンにくらべて、あきらかに高音がくるしそうだが、コーラスがうつくしいので、たびたび聞いている。おわりのあたりの、「君という光が私を見つける」と歌う、高い声のうしろに聞こえる低い声が、ふたつの声の重なりが、ほんとうにすきだ。
 君という光、というのは、なにだろう? 愛するひと? 愛するもの? 信じるもの? 信じられるもの? ときどき、宇多田ヒカルの歌う「君」を、神や、神のような超越的な存在に、置きかえて聞くことがある。

2024年5月19日日曜日

拾い読み日記 302

 
 こうして紙の上に書いてあるのをみると、この歌は、あまりいい歌のようには見えません。けれども、とてもお天気のいい日の午前十一時三十分ごろ、うす茶色のうぶ毛からもれて出たときには、じぶんがこれまでうたった歌のうちでも、上等(じょうとう)の歌の一つだと、プーには思えたのです。そこで、プーは、ずっとこの歌をうたいつづけてゆきました。(A.A.ミルン『プー横丁にたった家』石井桃子訳、岩波書店)

 ずうっとパソコンの前にいて、画面を凝視して、マウスをカチカチやって、作業を続けていると、あたまが混乱して、何がよかったのか、何がしたかったのか、わからなくなる。デザインの話。手からもれて出たものなら、そこにもどれるのかもしれないけれど。
 そういうときは、とりあえず、横になって、目を閉じてみる。そのうち、眠っている。目ざめてみると、あたまのなかは、落ちついている。

 朝、コーヒーをのんでいたら、中学校のプールから、大きな声援が聞こえてきた。今日は、水泳の大会らしい。とてもやかましい。声が反響して、風呂場で子どもがさわいでいるみたいだ。まだこちらは、起きたばっかりなのに。「青春だね」「ざっくりだね」。

 昨日、ふびんな犬を見かけた。あの犬のために、何ができるか、といえば、何も、できないのだが、それでも、何か、と心のなかで、たちあがろうとするものがある。

2024年5月3日金曜日

拾い読み日記 301

 
  昼間、近くの屋内プールからにぎやかな声が聞こえてきた。屋外プールのほうは水が抜かれ、清掃が始まっている。
 突然咳き込むことがあるので、まだ出かけられない。日当たりのよいベランダで、ふだんならビールをのむところだが、喉の痛みのせいでまったくのみたくならない。ビールのかわりに、バナナをたべた。日にあたり、風にふかれて木々の緑をみながらゆっくりと一本のバナナをたべる。ただそれだけで、じゅうぶん、開放的な気分になれる。さらにいえば、素直にもなれる気がする。ぺろんと皮をむかれたバナナは、なんだか剽軽なかたちをしている。

 ひどい咳でくるしんだ5年前の日記が残っていて、それを読むと、耳鼻科にいったあとも眠れないほどの咳が続いたようで、とてもつらそうだった。それに比べると、今回の咳は、眠れないほどではない。おそらく、脳内の咳中枢に働きかける薬と、気管支を広げるための貼る薬が効いているのだと思う。あの耳鼻科にいってよかった。

 5年前の夏の一週間の日記は、ギヨーム・ブラック『七月の物語』で始まっていた。その翌々日、ポール・オースターを読んでいた。

 もう死にたいとも思わなかった。と同時に、生きているのが嬉しいわけでもなかったが、少なくとも生きていることを憤ったりはしなかった。自分が生きていること、その事実の執拗さに、少しずつ魅惑されるようになってきていた。あたかも自分が自分の死を生き延びたような、死後の生を生きているような、そんな感じがした。(ポール・オースター『ガラスの街』柴田元幸訳、新潮文庫)

 大学生のときにオースターを読んで惹かれ、ペーパーバックのThe New York Trilogyを荻窪駅前の古本屋で見つけて買った。あれがはじめて買った洋書ではなかったか。どのくらい読んだのか、ほとんどおぼえていないけれど。
 黒っぽい本だった。ポール・オースターには黒が似合う。空虚の黒。謎の黒。

 このところいちばん手にしているのは、数年前に駒場の古本屋で買った『空腹の技法』で、そこで論じられている人たちの本は、オースターを読まなくなってから、本棚に集まってきたものだ。カフカ、ベケット、ジョルジュ・ペレック、パウル・ツェラン、エドモン・ジャベス、アンドレ・デュブーシェ……。20代のころは、オースターが詩を書いていたことも、翻訳をしていたことも、知らなかった。
 自分が生きて、生き延びて、本を読んでいること。その事実の執拗さ。

2024年5月2日木曜日

拾い読み日記 300


 ひさしぶりに風邪で寝込んだ。
 喉と鼻の症状がひどく、昨日、ネットで調べた耳鼻科にいってみた。台湾出身の、推定70代の医師で、診察室には物がたくさんあり、見まわすと、くたびれ気味のぬいぐるみや謎の絵にまじって、むきだしのアコースティックギターがあった。診察に疲れたら、弾くのだろうか。症状を話すと、鼻と喉の奥を調べられ、つぎは何をされるのか、と思う間もなく、左右の鼻の穴に綿棒をぐいっと突っ込まれて、ひっ、と声が出そうになった。そのあと、先生は、中世のヨーロッパが不衛生だった話や、遣唐使の話をしていたが、どういう文脈だったかはすっかり忘れた。だいじょうぶかな、とは思ったものの、処方された咳止めや鼻炎の薬はまずまず効いているようで、意欲も戻り、今日からどうにか、起きあがって活動できるようになった。

 寝ながら、iPhoneで竹田ダニエルのウェブ連載「やさしい生活革命」を読んだ。資本主義的「ご自愛」への抵抗。自分にとって、そのようなセルフケア的たのしみは、気まぐれな読書、昼寝、散歩、卓球だろうか。ほかにもふやしたいし、何より、気まぐれな制作もしたいと思うのだが、今は、仕事と卓球で、わりといそがしい。


 寝込んでいるときに読める本は少ない。読みやすい、一気に読める物語や小説がいい。ふだんほとんど読まないから、家の本棚にはない。それで、耳鼻科の帰りに、駅前のちいさな本屋さんにいった。文庫の棚をうろうろして、角田光代『対岸の彼女』とカズオ・イシグロ『クララとお日さま』を見つけて買ってきた。

 『対岸の彼女』を読み始めたら止まらなくて、寝床で一気に読んだ。
 感想を書こうとしても、ちんぷな言葉しか浮かばない。読んだばかりの小説と、適切な距離を置くことは難しいことだと思う。彼女たちの物語のなかに迷い込んで、まだ、そこでいきているような感じがする。人との関わりのなかで、なやんだり、くやんだり、うれしくなったりして。
 恋とか愛とか友情とか、そういう言葉におさまりきらない、人と人の、濃くなったり淡くなったりする関係にひかれる。

 そういう意味では、鶴谷香央理『メタモルフォーゼの縁側』のふたりがすきで、ときどき最初から最後まで読み返す。「人って 思ってもみないふうになるものだからね」。75歳の市野井さんが、高校生のうららさんにいう言葉がすきだ。たしかに、「変身」は、予想できないものだし、いつのまにかなされるものなのだ。

 卓球だって、こんなにやるようになるとは思わなかった。試合も、ひどく緊張するが、それがあるからまた出たいと思う。先月、卓球仲間のIさんとダブルスの試合に出て、負けに負けた。ふたりとも、本番にめっぽう弱いタイプだということがわかった。この人たちにはさすがに勝てるのではないか、と思った初心者のペアにも、フルセットで負けた。ここぞというときに力んでサーブミスをした。なさけなかった。
 それでも、あの日、間近でみたIさんの、緊張した、いっしょうけんめいな顔がすてきで、ときどき、思い出している。

 まだ遠出はできないので、ベランダでぼんやり外の景色を眺めていたら、塵が飛んできた。白っぽい塵かと思ったものはたんぽぽの綿毛で、風に舞いあがって、どこかに向かうところだった。啓示、ではないけれど、綿毛みたいにいきるのも、いいよなあ、と思った。

2024年4月19日金曜日

拾い読み日記 299

 
 桜の木の、天地について。
 桜は地面に近いところから、花から葉にうつっていく。人が木を見あげて、すっかり葉に変わった、と思っても、空に近い部分には、まだ、花が咲いている。だから今朝も、2階のベランダに、花びらが風にのって、ながれてきた。

 花がふってくると思う
 花がふってくるとおもう
 この てのひらにうけとろうとおもう

 八木重吉の詩集を、ひさしぶりにひらいた。みじかい詩だから、あたまをよぎったときと、そんなに、変わらない。それでも、本を手にして、紙をめくり、詩をさがす。すこしのあいだ、文字をながめる。手のひらで、全身で、言葉をもっと、うけとることができればいい、と思う。

 昨日の午後は気圧のせいかめまいがして、横になって瞑想しよう、と思い、目を閉じた。眠ろう、と思うのでなく、瞑想しよう、と思うほうが、すんなり眠れる。
 
 うすももいろの花びらは、ひらひらひるがえったり、ちいさくかがやいたりして、空の青とあそんでいるようでもあった。
 見ているうちに、くらい思いは消えていった。

2024年4月9日火曜日

拾い読み日記 298


 昨日は、散り始めた桜の木のそばで、ビールをのんだ。今日は、強い雨風で、桜の花びらが一枚、また一枚と、ベランダまで飛ばされてくる。桜の季節はそろそろおわりだけれど、欅に続いて銀杏の木も芽吹いて、あたまからうすみどり色のレースをまとったようなすがたに見とれる。

 もやもやとさわがしい気持ちをしずめる言葉を必要として、古本屋で買った、ペーパーバックのエミリ・ディキンスンの詩集を手に取り、開いた。
 ある事情から、この詩集の前の持ち主を知っている。英文学者で、会ったことはないが、その人の本は、読んだことがある。うっすらと親しみを感じている。その人は、この詩集を、どんなふうに読んだのかわからない。だいぶ古びていて、何度もめくられたようだ、ということは、わかる。

 「本の頁に/ほら おまへがのこした指紋がその言葉をきいてゐる」(立原道造「室内」より)

 ページの上で、指と指が、眼差しと眼差しが、言葉と言葉が、交差する。一瞬、そのひとの気配を感じたとき、奇妙にしずかな気持ちになった。

2024年4月4日木曜日

拾い読み日記 297


 毎日窓から眺めている欅の木が芽吹いて、冬の木から春の木に変わった。ほんの一日二日、気を抜いていたら、そうなっていた。枝だけの姿もきりりとしてすきだったが、今、枝は、うすいみどりの若い葉をまとって、やさしげに風にゆれている。
 木の天辺に鳥が来て、とまった。「飼ふならば樹の頂の春の鳥」。隣にいる人が、とつぜんいうので、おどろいて顔を見上げた。『封緘』という句集にある、藤井あかりさんの俳句だった。しばらくして、鳥は、すーいすーいと泳ぐように飛んでいった。

 タハール・ベン・ジェルーン『嘘つきジュネ』を読む。「白く光り輝いている、ジャン・ジュネの声」。読んでいるうちに、聞いたことのないジュネの声を、どこかで聞いたことがあるような気がしてくる。なつかしい、と思う。不思議なことだ。
 
「わたしがブラックパンサーとパレスチナ人から学んだのは、反乱の何たるかをもっとも理解させることができるのは詩的表現だということだ。その表現が曲解されてしまうこともあるだろうし、一種の美学として見られる可能性もある。注意が必要だ。簡単なことじゃない。
 人種主義を、無益で邪悪な蛮行を理性によって告発することで、もし何かをなしうるのであれば、告発されているものはもうとっくに根こそぎ追い払われているはずだ。多くの人間がそうしたのに、それでもまだそれは残ったままじゃないか……」

 この、ジュネの言葉をめぐって、思ったことをMと言い合って、何か、答えが見つかったわけではないが、いくつもの示唆をもらった。

 しばらく前に、銀座の街頭で、ひとり黙ってメッセージを掲げて立つ女性を見かけた。その人は、にぎやかな夕暮れの街で、明らかに、浮いていた。
 まるで一行の詩のように、孤独で、強い、そう思ったのはジュネの言葉を読んだからかもしれなくて、書きながら、この言葉のあやうさを感じる。
 その存在、そのあり方が、強いということ。塞がる胸に入り込んで立つ「一行の詩」が、力を与えてくれている。