2024年5月3日金曜日

拾い読み日記 301

 
  昼間、近くの屋内プールからにぎやかな声が聞こえてきた。屋外プールのほうは水が抜かれ、清掃が始まっている。
 突然咳き込むことがあるので、まだ出かけられない。日当たりのよいベランダで、ふだんならビールをのむところだが、喉の痛みのせいでまったくのみたくならない。ビールのかわりに、バナナをたべた。日にあたり、風にふかれて木々の緑をみながらゆっくりと一本のバナナをたべる。ただそれだけで、じゅうぶん、開放的な気分になれる。さらにいえば、素直にもなれる気がする。ぺろんと皮をむかれたバナナは、なんだか剽軽なかたちをしている。

 ひどい咳でくるしんだ5年前の日記が残っていて、それを読むと、耳鼻科にいったあとも眠れないほどの咳が続いたようで、とてもつらそうだった。それに比べると、今回の咳は、眠れないほどではない。おそらく、脳内の咳中枢に働きかける薬と、気管支を広げるための貼る薬が効いているのだと思う。あの耳鼻科にいってよかった。

 5年前の夏の一週間の日記は、ギヨーム・ブラック『七月の物語』で始まっていた。その翌々日、ポール・オースターを読んでいた。

 もう死にたいとも思わなかった。と同時に、生きているのが嬉しいわけでもなかったが、少なくとも生きていることを憤ったりはしなかった。自分が生きていること、その事実の執拗さに、少しずつ魅惑されるようになってきていた。あたかも自分が自分の死を生き延びたような、死後の生を生きているような、そんな感じがした。(ポール・オースター『ガラスの街』柴田元幸訳、新潮文庫)

 大学生のときにオースターを読んで惹かれ、ペーパーバックのThe New York Trilogyを荻窪駅前の古本屋で見つけて買った。あれがはじめて買った洋書ではなかったか。どのくらい読んだのか、ほとんどおぼえていないけれど。
 黒っぽい本だった。ポール・オースターには黒が似合う。空虚の黒。謎の黒。

 このところいちばん手にしているのは、数年前に駒場の古本屋で買った『空腹の技法』で、そこで論じられている人たちの本は、オースターを読まなくなってから、本棚に集まってきたものだ。カフカ、ベケット、ジョルジュ・ペレック、パウル・ツェラン、エドモン・ジャベス、アンドレ・デュブーシェ……。20代のころは、オースターが詩を書いていたことも、翻訳をしていたことも、知らなかった。
 自分が生きて、生き延びて、本を読んでいること。その事実の執拗さ。