2019年5月31日金曜日

拾い読み日記 126


 すきなだけ眠ろうと思っていたのに、5時半ごろに目が覚める。もう一度寝ようと思ったが、あたまが冴えていろいろなことをかんがえてしまい寝つけないので、起きた。
 曇り空を眺めて、鳥の声を聞いた。今日はとりあえず、あそぼうかな、と思った。去年の秋からずっと、制作に追われていた。たのしかったけれど、それはおもりのような重さのあるたのしさで、何か、ずっと、心身に負荷がかかっていたように思う。

 みたいもの、よみたい本、つくりたいもの。やってみたいこと、ためしてみたいこと。たくさんあって整理がつかないが、今はただ、外に出たい。

 ある日、ぼくは
 舟からおりてその小さな岩の島にねころび、
 ただそれだけのことで
 遠い願いのなかにいるような気がした。

             (菅原克己「島」)

2019年5月26日日曜日

拾い読み日記 125


 暑すぎてぐったりする。体力と集中力に欠けている。それでも、最低限のしごとだけは済ませた。文字の直しは「殺され→惨殺され」。ぶっそうな件名のメール。

 お昼に外出。五目そばをたべながら新聞をよんだ。「ロスジェネ」はいま、という記事や、加藤典洋追悼文など。
 朝、ステファヌ・マラルメ『詩集』(柏倉康夫訳、月曜社)を読んだ。「扇 マラルメ夫人の」。

 言葉のためであるかのように

 空に向かって一度羽ばたくだけで
 未来の詩句は解き放たれる
 いとも貴いその住処から

 字間がすこし空いているのが、いいなと感じた。ぱっとみて、くるしくならない。


 つかれているのは、昨日のお酒のせいかもしれない。たのしかったので、ややのみすぎた。風邪のときの夢の話、もっと聞きたい感じがした。自分は、5年前の夢の話をした。Tくんにあたまから水をかけられ、いっしょに魚をたべる夢。それがしきたりだということだった。

2019年5月24日金曜日

拾い読み日記 124


 暑い日。ふとんを干して、シーツを洗う。ラフを何度かつくりなおし。迷走。昼寝。製本作業。

 夕方になり、ひと段落。涼しい風が吹いてくる。ベランダで、昨日の飲みのこしの白ワインをのんだ。しばらく茜色の雲をながめる。雲はつぎつぎ色を変え、蛍光オレンジになったり、ピンク色になったり、それが灰色とまじりあったり、見飽きなかった。ふと、シングルトンでいっしょに夕焼けをみたふたりは、げんきかな、と思った。あれからもう8年近く経つ。あの町にいくことは、もう、ないだろうと思う。友だちがうまれたところ。かわいらしい結婚パーティーがあった場所。小さく光りながら遠ざかる飛行機をみていたから、きっと、思い出したのだ。

「あなたの微笑と似たところがあって、笑ったあと消えてしまった微笑はどこにも見つからない。あなたの体にしたってそうで、消えてしまう。愛もそうで、あなたも私もいなくなったあとはどうなるのか? それをなんと言ったらいいんでしょう? 愛がなくなったなんて言えますか?」(マルグリット・デュラス「ローマ」)

 本のなかに、まだ、ephemeralをさがしている。

2019年5月23日木曜日

拾い読み日記 123


 午前中、すこし仕事。なかなかうまくいかない。お昼に出たら、日差しがきつくて、つらかった。しおれた躑躅をみて、さみしい気持ちになった。さみしい、というか、わびしい。着ない服を古着屋に持っていった。落ちついたら、本棚の整理もしたい。埋もれている本をみつけて、よみたい。

 帰ってきて、ぐったりして、すこしねた。起きて、珈琲をのんでから、『宮川淳著作集』(美術出版社)をひらいた。

実際、引用とは読むこと(享受)であるのか、書くこと(創造)であるのか。そこでは読むことが書くことであり、書くことが読むことであるような、この鏡の空間。(「引用について」)

 小冊子はできたとはいえ、まだ制作途上のような、問いの中にいるような感じがして、うまく「生活」できていない感じがする。手紙を書いたり、ものを送ったりしなければ、と思いつつ、何日か経ってしまった。

 宮川淳をよんだのは、昨日、三浦雅士の『幻のもうひとり』を拾い読みしたからだった。手元にないので、うろおぼえだが、あとがきに書いてあったことが、気になっている。幻のもうひとり。いいタイトルだな、と思う。

2019年5月22日水曜日

拾い読み日記 122


 お昼をたべに外へ出て、たべたあと、図書館に本を返しにいくつもりだったのに、眠気におそわれ、帰ってねた。このところ、早朝に目が覚めたりしていて、眠りがうまくいっていなかった。昼寝をするひまもなかった。これからは、眠くなったら、時間のゆるすかぎり、どんどんねていきたい。

 今日は夕方、水中書店で15分くらいお店番。そのあと本を買った。ほしいと思っていた白い詩集(ノンブルが朱色)はなぜか買えなくて、朝吹亮二・松浦寿輝『記号論』(思潮社)を買った。本文の紙と組みにひかれた。読んでいると、金属活字が組まれた様子、インテルやクワタの質感までが、ぼうっと脳裏をよぎる。まるで亡霊のように、あらわれたり消えたりする。
 別冊の小冊子は、著者たちによる「NOTE」。そこでドゥルーズ=ガタリ『カフカ』が引用されていて、どきっとした。それはさっき本棚からえらんで鞄に入れてきた本だった。こんなことは、もちろんただの偶然なのだが、まるで本に読まれているようで、なんともいえない気持ちになる。ただの偶然、といいながら、本のおそろしさを、そこはかとなく、感じている。

 語そのものは動物「のような」ものではない。そうではなくて、みずからよじのぼり、吠え、うじゃうじゃとうごめく。そもそもが言語的な犬、昆虫、ネズミだからだ。

 昨夜は、書物論講座でいっしょだったOくんとTくんと、西荻窪でのんだ。Tくんが、「僕は書きます。あなたは読んでくれますね」という足穂の言葉を、Aさんが『ぽかん』の「ぼくの百」で引用していた、と教えてくれた。そういえば、たしかにそこで読んだのだった。
 新年会では3軒はしごしてのみすぎて、次の日もぐあいが悪かったが、今回は2軒でやめておいた。おとなになったのか。次回は読書会をやろう、という話になる。

2019年5月21日火曜日

拾い読み日記 121


 朝から雨。ぼうっと過ごす。

 昨日はSUNNY BOY BOOKSへ納品に。しばらくお店にいたがだれもこないので散歩に出た。飯島書店をみつけて入る。じっくり棚をみて4冊購入。2000円いかないくらい。財布にも2000円くらいしかなくてひやっとした。もっと入っているかと思った。

 4冊のうちの1冊、北原白秋訳『まざあぐうす』(角川文庫)は、スズキコージの挿絵もたっぷり入っていてたのしい。はしがき「日本の子供たちに」をよむ。ところどころうっとりとなるところがある。うたみたいな呼吸、間合い、リズム。

 マザア・グウスのおばあさんがそのがちょうの白い羽根をむしると、その羽根がやはり雪のようにひらひらと、地の上に舞(も)うてきて、おちる、すぐにその一つ一つが白い紙になって、その紙には子供たちのなによりよろこぶ子供のお唄が書いてあるので、イギリスの子供たちのお母さんがたはこれを子供たちにいつも読んできかしてくだすったのだそうです。いまでもそうだろうと思います。

 いつか白秋全集がほしい気がしたけれど、どうかんがえても置き場所がない。


2019年5月19日日曜日

拾い読み日記 120


 くもり。5時ごろ目がさめたが、もう一度ねて、9時に起きた。からだのあちこちが痛くて、つかれている。

 昨日は「ephemeral」の初日。ぜんたいに紙がひらひらした感じ。お店の奥の椅子に座っていると、おちつくけれど、ひとが来ると、じゃまじゃないかな、と外に出たくなる。kさん、mさん、Hさん、k.mさんが来てくださった。
 なんとなくかばんに入れてきたアントニオ・タブッキ『レクイエム』を、お昼にすこしよんだ。「はじめに」がとてもすきなので、そこばかりよんでしまう。

 このレクイエムにはレクイエムとしての厳粛さがないと言われれば、そのとおり、と答えるよりほかはない。だが、せっかく自分の音楽を奏でるのなら、大聖堂にふさわしいオルガンなどではなくて、ポケットにしまっておけるハーモニカ、さもなくば町なかでも持ち歩ける手回しオルガンの方がいい、正直わたしはそう思った。ドルモン・ジ・アンドラージのように、わたしは昔から俗っぽい音楽が大好きだから、こんな風に書くジ・アンドラージの言葉に同感だ。「ぼくはヘンデルを友だちに持ちたいとは思わない。大天使たちの朝の合唱なんてまっぴらだ。街がはこんできてくれたもの、なんの教訓も残さずに、ぼくらの命同様、きれいさっぱり消えるもの、それさえあれば充分なのだ」

 帰りに、流浪堂に寄った。『ホフマンスタール詩集』(小沢書店)、『牧野虚太郎詩集』(国文社)、滝田ゆう『昭和夢草紙』(新潮社)を買う。

 夫とMさんと一杯やって帰った。3人ともつかれきっていて、Mさんはグラスを倒したり、夫は箸を落としたりした。ときどきぼうっとしながら、話したり、のんだりたべたりした。Mさんが買った古本をみせてもらったり、自分が買った古本をみせたりした。こういうのはたのしい。Mさんが買った本は、マッシモ・カッチャーリ『死後に生きる者たち』。気になるが、開いてみたら、自分にはちょっとよめないかもしれないな、と思った。

 りんてん舎の灯りがついていたので窓をコンコンたたくと、Fくんがギターを持って出てきたのが、おもしろかった。しばらく立ち話。

 昨日はそんな一日だった。