2025年1月12日日曜日

拾い読み日記 314

 
 とても長いあいだ、頭上にかかっていた雲が、今朝は消えていた。どこにいく予定もない朝。のびのびした気分で、スコーンをたべて、落書きをしてあそぶ。
 
 おととい、ふたりの詩人の朗読会にいって、すばらしかったなと思い返して、詩集を読んで、詩を書いてみたい、とはじめて思った。
 今日、数行書いてみて、なんてちんぷなんだ、と投げ出した。

 昨夜は、ふたりの詩集(『ノックがあった』と『冬の森番』)を、食後のテーブルにのせて、Mとちいさな朗読会をひらいた。
 「オールトの雲」を読んだら、「白鳥とラーメン」を読んでくれた。それからもう一篇、「ウィークエンド」を読み、「会話」を聞いた。

 声に出して読むとき、詩が、ふたつの空間にひびく感覚があった。部屋のなかと、からだのなか。空気が変わり、よどんだものが消えていく。しずかな場所で、深い読書をしたあとのように、みたされた。

 (ところできみの好きなものはなに)
 すぐにはこたえられない。どうしてこんなにねじれてしまったのだろう、と思う。

 刷り色が決まらなくて、カラースライダーを動かしてばかりいた明け方、空をみて、無意識にCMYKの数値に変換しようとした、デジタルに占領されてしまったあたまを、まっしろの状態にしたい。空の色がそのまま、なににも変換されずに、しみいってくるこころがほしい。
 言葉は、そのあとでいい。

2025年1月7日火曜日

六花


 『六花』という冊子をつくっています。りっか、ろっか、むつのはな。雪のことです。
 雪をモチーフとした宮下香代さんの作品と、雪のことばをあわせて、一冊にしました。すこし、活版印刷のページもありまして、いま、家で、印刷中です。
 1月18日からGallery SUで開催される宮下さんの展示「六花」でご覧いただけますので、ぜひ足をお運びいただけたら幸いです。
 くわしくは、こちらに。




 今年も、New Year Greetings展に参加しています。盛岡の書肆みず盛りにて。
 書肆みず盛りに、昨年10月、はじめて訪ねることができました。木のにおいのする、あたたかなかんじの場所でした。
 年賀状展の参加者のなかに、なつかしい名前もあって、こうして、あたらしい場所で、いっしょに展示してもらえることを、うれしく思っています。
 お近くの方、どうぞよろしくお願いします。



2024年12月29日日曜日

拾い読み日記 313

 
 一年が終わりにむかう、このごろの街の雰囲気が、きらいではない。終わりがあって、はじまりがある。自分もあたらしくなって、また何かをはじめられそうな気がする。

 先日、一年ぶりに演劇を見にいった。永井愛作「こんばんは、父さん」。廃業した町の工場を舞台にした、切羽詰まった父と息子と借金取りのやりとりは、すばらしくおもしろくて、濃密で、見て、よかった。
 永井愛さんのつくる劇には、人間に、人間らしくあってほしい、という願いがこめられている気がする。社会のなかで生きる人間には、ままならないことも、どうにもできないこともあるけれど、自分の心身と、自分の人生を、ないがしろにしない気持ちがあれば、そのうち、事態は変わっていく。光がさしてくる瞬間が、きっとおとずれる。永井さんの舞台を見にいくようになって、しだいに、そんなふうに思うようになった。本と同じように、演劇のことばも、ゆっくりと届くものなのだと思う。

 劇が終わって、暗くなって、ぱっとライトがついた瞬間、魔法がとけたような、さみしい気持ちになった。もっとあの3人を見ていたかったのに、いなくなってしまった。
 かわりにあらわれた3人の役者は、それぞれ、役の人生を生ききって、ほんとうにいい顔をしていた。
 「いい人生を」。またひとつ、わすれられない言葉がふえた。

 サイコロ状の木片に、ランダムにひらがなが貼ってある「もんじろう」というゲームを買った。ころころ転がして、言葉を組み合わせてあそんでいると、夢中になる。昨日は、食後に、Mといっしょにあそんだ。1分以内に、どれだけひらがな3文字以上の単語がつくれるか、というあそびである。目に入った「こ」と「う」と「ん」とで、咄嗟に単語をつくったら、ふたりとも笑いがとまらなくなり、それしかつくれなかった。無念だった。なぜ、もうひとつ「う」を見つけて、「こううん」にしなかったのだろう。それに、あとからかんがえると、「うこん」だって、よかったのだ。

 リディア・デイヴィス『話の終わり』を読みすすめる。とてもおもしろいのだが、おそらく昨日よんだ一節のせいで、明け方、とても怖い夢をみた。

2024年12月23日月曜日

拾い読み日記 312

 
 また 川を見に
 行こう と考える
 いま それ以上の ことを
 考えることができない
 血のことを 考えるよりも
 川のことを考える
 ほうがよい
 日本には ついに
 思想らしい思想は 生れないのか、
 と悲しみながら
 風の日の しめ切った あつい
 電車に乗っている。
 きみは悲劇的な
 死者たちばかりを愛している。 

 飯島耕一「川と河」より

 どうしてこの詩のこの一節に惹かれたのかはわからないが、書きうつしておきたいと思った。声に出して読んでみた。一字空きと、改行のしかたが、今の気持ちに、合っていたのかもしれない。詩を読むことは、つかのま、ひとの呼吸で、いきることにひとしいと思う。

 突然、米津玄師のことが気になって、「さよーならまたいつか!」のMVをみた。これまでほとんど興味がなかったのに、何度かみているうちに、表情や声や仕草に、じぶんでも不思議なくらいひきつけられた。こんなに赤い上下が似合うひとが、ほかにいるだろうか?
 「100年先も憶えてるかな 知らねえけれど さよーならまたいつか!」。
 知らねえけれど、という言葉が、みょうに、いいのだった。解放感がある。

 一昨日から、ネットでニュースをみるのをやめた。Xをみるのもやめた。
 そのかわりに、新聞をとりはじめた。新聞が、朝と、午後に届くことの、ありがたさ。紙をめくって、読む。読み終えて、紙をたたむ。そのよさを、ずうっと忘れていた。

2024年12月5日木曜日

近況


 十田撓子さんの詩集『あさつなぎ』刊行記念展にご来場のみなさま、ありがとうございました。本は、ひきつづき、Titleにありますので、ぜひ、見ていただけたらうれしいです。
 2階の窓から入る光で詩集がかがやいていたようすを、ときおり思いだしています。
 秋田市の喫茶店「交点」では、3回にわたって、朗読とトークのイベントが開催されています。

 今は、造形作家の宮下香代さんと、本をつくっています。香代さんの作品にあわせて、詩、俳句、随筆、歌をえらび、組んでみました。
 一年ぶりに印刷機もうごかす予定です。うまく刷れますように……。
 くわしくは、あらためてお知らせします。

 それから、明日発売の『群像』1月号に、エッセイ「放たれたページ」を寄稿しました。


 日記が書けなくなったので、書くということを、とても新鮮に感じました。あたまにうかんだことを言葉にして、それを読んでみて、その言葉からまたあらたに感じたことを言葉にして、それをくりかえして、いったりきたりでふらふらしながら、ほそい道のようなものを見つけて、あるいていく。そんなふうに、書きました。

 どうして日記が書けなくなったのか、たぶん、もろもろのしごとで心身をつかいはたしたから、というのもあると思いますが、書いたらすぐに公開、という速さも、自分に合っていないのかもしれない、と思うようになりました。速さ、だけでなく、かんたんさ、ということにも、多少のうたがいがあります。(といいながら、書きたくなったら、また書きます。)

 つくるだけでなく、つくったものを、どんなふうに手にしてもらいたいのか、どんなふうに読んでもらいたいのか、そこまで、できるだけかんがえて、活動をつづけていこうと思います。だいじなのは、自由な気持ちでいられるかどうか。自分のリズムとやりかたを、これからも、さぐりながら。
 
 12月になったのに、まだあまり寒くなくて、ふしぎな冬です。風に舞う葉や、路上の落ち葉がうつくしいので、ぼうっと眺めたりしています。

2024年11月14日木曜日

拾い読み日記 311

 
 このところ、激しい感情の波に溺れかけていたようで、心身を消耗した。
 珈琲をのみながら、メイ・サートンの『独り居の日記』を開いて、読んだ。読むのは、どこでもよかった。
 波がしずまりつつあるのを感じた。いきているかぎりは、このように、こころに嵐がやってきて、去って、というのを、くりかえすのだろう。

 展示がおわったことと、卓球の大会で入賞したことの打ち上げで、Mと、昼も夜もビールをのんだ。

 そう書いてから、2週間くらい経っただろうか。
 今日は、朝、パンケーキを焼いてたべた。窓から見える欅の木が色づきはじめていて、眺めているだけで、幸福を感じた。

 すっかり気持ちもおちついている。
 亡くなったとつたえ聞いた、ふるい友人のことを、書いて、消した。

2024年11月9日土曜日

「あさつなぎ」展




 Titleにて開催中の『あさつなぎ』刊行記念展、会期も残りすくなくなってきました。ぜひ会場で、十田撓子さんの詩の世界に、ふれてみてください。

 詩を書く/読むことについて、詩集をつくることについて、手紙と書物について、この10年くらい、(ぼんやりと)考えてきましたが、おなじようなことを考えずにはいられない人に、見てもらえたらいいなあと思います。