一年が終わりにむかう、このごろの街の雰囲気が、きらいではない。終わりがあって、はじまりがある。自分もあたらしくなって、また何かをはじめられそうな気がする。
先日、一年ぶりに演劇を見にいった。永井愛作「こんばんは、父さん」。廃業した町の工場を舞台にした、切羽詰まった父と息子と借金取りのやりとりは、すばらしくおもしろくて、濃密で、見て、よかった。
永井愛さんのつくる劇には、人間に、人間らしくあってほしい、という願いがこめられている気がする。社会のなかで生きる人間には、ままならないことも、どうにもできないこともあるけれど、自分の心身と、自分の人生を、ないがしろにしない気持ちがあれば、そのうち、事態は変わっていく。光がさしてくる瞬間が、きっとおとずれる。永井さんの舞台を見にいくようになって、しだいに、そんなふうに思うようになった。本と同じように、演劇のことばも、ゆっくりと届くものなのだと思う。
劇が終わって、暗くなって、ぱっとライトがついた瞬間、魔法がとけたような、さみしい気持ちになった。もっとあの3人を見ていたかったのに、いなくなってしまった。
かわりにあらわれた3人の役者は、それぞれ、役の人生を生ききって、ほんとうにいい顔をしていた。
「いい人生を」。またひとつ、わすれられない言葉がふえた。
サイコロ状の木片に、ランダムにひらがなが貼ってある「もんじろう」というゲームを買った。ころころ転がして、言葉を組み合わせてあそんでいると、夢中になる。昨日は、食後に、Mといっしょにあそんだ。1分以内に、どれだけひらがな3文字以上の単語がつくれるか、というあそびである。目に入った「こ」と「う」と「ん」とで、咄嗟に単語をつくったら、ふたりとも笑いがとまらなくなり、それしかつくれなかった。無念だった。なぜ、もうひとつ「う」を見つけて、「こううん」にしなかったのだろう。それに、あとからかんがえると、「うこん」だって、よかったのだ。
リディア・デイヴィス『話の終わり』を読みすすめる。とてもおもしろいのだが、おそらく昨日よんだ一節のせいで、明け方、とても怖い夢をみた。