2022年3月10日木曜日

拾い読み日記 270

 
 え、と思うほど、それはちいさかった。種みたいなもの、花みたいなもの、うつわみたいなもの、糸、透ける布、これは、ひとの爪? いや、そんなわけはなくて、なにか、ささやかな、なにかの痕跡。
 ぼうぜんとしていたと思う。ちかよってみたり、はなれてみたりした。そっと、それらをふきとばしてしまわないように、しずかに。そのものの大きさと、とりまく景色がすこし変わった。あたらしく、あらわれつづけているようだった。
 それがなにかはわからないままに、これはじぶんのためにつくられたのだ、ということは、わかった。ここに、いまいる、わたしのために。これまでいきてきて、ようやく、ここにやってきた、わたしのために。きっと、いわわれて、いのられている。
 もっといろいろなことを、たくさん、ふかく、感じたかったけれど、できないうちに、時間がきた。うながされ、身をかがめ、それらとわかれた。

 帰りに入ったカフェで、持ってきた白い本をひらこうとしたが、近くの席で数名のやり手っぽい人たちが、自動車業界におけるSDGSの話をしていて、そのはきはきした声がやけによく聞こえるので、読めなかった。

 今日のなごりに、白くて四角い石みたいなおもたい本を買って帰って、駅に着いて、いきつけのお店でひらこうとしたが、隣で若い男女が、奨学金の返済や自己破産の話をしていたので、気になって、読めなかった。

 帰り道、沈丁花の花がにおって、夜道がきよらかなものになった。

 このところ、じぶんのための精神的な居場所を、じぶんの手でつくることについてかんがえていたけれど、それは、遍在するものなのかもしれない。つくろうとして、つくれるものではないのかもしれない。

2022年3月7日月曜日

「春の手紙」はじまりました




 SUNNY BOY BOOKSでの展示「春の手紙」、ぶじに、はじまりました。

 今回つくったのは、まず、『はるのこと』というちいさな冊子です。春の言であり、春の事です。歳時記から、春の季語をえらんで刷りました。季語だけでなく、春の句からえらんだことばもはいっています。のたりのたり(春の海)とか、ぽたりぽたり(椿が落ちる音)とか。
 ひらがなだけの冊子です。ひらがなにひかれていることについては、『水草』2号に書きましたので、あわせてよんでいただけたらいいなあと思います。ひらがなは、余白が多いし、曲線が多いし、意味もぱっとつかみにくいところが、すきです。
 自分で活字を組んで、半紙に刷りました。帯みたいなケースがついていて、ピンクか、水色か、黄色(黄緑色?)から、えらんでもらえます。
 ばたばたと、制作に追われてしまい、今もあたまが、うまくはたらきません。展示のためにつくった、ほかのものについては、おいおい、また書いていけたらと思っています。

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 最近、窓からみえる木に、よくヒヨドリがやってきます。姿のみえないほかの鳥と、さえずりを交わして、聞いたことのない鳴き方をして、気をひいているみたいで、とても、かわいらしいのです。ちなみに、「さえずり」は、春の季語です。

 昨日は、ほんとうにひさしぶりに、たくさんねむって、ひといきつく時間ができたので、本をひらいて、片山廣子の「鳥の愛」というエッセイを読みました。ちいさないきものによせる深い愛情に、いつ読んでも、こころうたれます。ちいさな、はかないいきもの、というのは、何も小鳥だけのことではなくて。
 
 電車に乗つてから明るい心で私は念じた、野の鳥と籠の鳥をまもつて下さる神様、どうぞ人間も、苦しんでる人も悦んでる人も守つて下さい、どこにゐても。(『新編  燈火節』より)

 制作に集中するために、知ることも、かんがえることも、想像することも、休んでいました。自分にも、世界にも、うまく関われていない感じがします。思いはことばにならず、祈りかたもわからず、今は、できるだけこころをしずめて、紙を折ったり、綴じたりしています。
 〈本〉や、ことばや、詩人が、信仰の対象ではないけれど、では、そうではなくて、なんだろう、ということを、最近かんがえています。

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 感染症対策として、オンラインでも、あたらしい本や展示したものをごらんいただけます。
 (サニーチームのみなさま、テキパキとうごいてくださり、ありがとうございます)
 
 なかなかお目にかかることはかなわないかもしれない3月ですけれど、手紙を書く/手紙が届くために必要なのは、何よりも、距離ではないか、と思っています。だから、ちょうどいいのかもしれません。近すぎると、手紙は、書けません。

 また、書けたら書きます。

2022年2月17日木曜日

春の手紙



 来月開催予定の展示のお知らせです。

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ヒロイヨミ社「春の手紙」

2022年3月5日(土)—3月17日(木) ※月・金休み
12
20時(最終日18時まで)

目黒区鷹番2-14-15

(状況により変更になる場合もあります。ご来店の際のお願いごともありますので、お越しの際は、お店のHPをご確認ください)

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〈春〉と〈手紙〉をモチーフとした新作や『水草』(水中書店+ヒロイヨミ社)2号を販売します。
 あたらしい冊子は、ちいさくて、やわらかで、『ephemeral』よりephemeralです。
 『水草』春号では、詩人の川島雄太郎さん、画家の大平高之さんに参加していただき、詩、俳句、エッセイ、という内容です。前号とはまたちがった雰囲気の冊子になりそうです。
 
 写真は、4年前の3月に展示をしていた言事堂で撮った、小さな紙に刷ったエミリ・ディキンスンの詩です。川名澄編訳『わたしは誰でもない エミリ・ディキンスンの小さな詩集』では、こういう訳です。

 口にだしていうと
 ことばが死ぬと
 ひとはいう
 まさにその日から
 ことばは生きると
 わたしがいう

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 昨年、展示の話をSUNNY BOYのたかはしくんからいただいて、はじめて冊子をつくってから、2022年の春で、ちょうど15年、ということに気がつきました。
 あの春に思い立って、ぺなぺなの黄色い冊子をプリントゴッコでつくって、よかったなあと思います。作業はつらかったし、不安だったし、反応がほとんどないのもさみしかったけれど、あの春から、いろいろなことがはじまったからです。
 ひさしぶりにその、はじめてつくった冊子を開いてみたら、50歳の自分には、刷り色が薄くて文字は読みにくいし、紙は薄すぎる気がしたし、もう今だったらぜったいにつくれない(つくらない)ものでした。でも当時は、やみくもで、ひっしでした。はかないもの、かろやかなものに、自分をこんなふうに、賭けたのだなあ、と思いました。
 本文の読みにくさはおいといて、表紙の黄色はやっぱりやけにあかるくて、春のうれしさとまぶしさを、思い出しました。
 15年経ったけれど、まだこれからも、はじまることばかりだと、きっと春の前だから、素直に、そう感じています。

 まだまだ状況は見通せませんので、どうぞ無理はなさらず、気がむいたら、お越しください。

 おだやかであかるい春が、はやく来ますように。


 追伸 DMが届いてもあまりプレッシャーに感じないでくださいね

 追伸2 届かなくても、よろしくおねがいします

2022年2月5日土曜日

拾い読み日記 269

 
 何年か前、吉祥寺の地下のお店でお茶をのもうとしたら、たまたま知っているひとが絵の展示をしていた。ちょっと不思議な物語が絵になったみたいで、おもしろくみていたが、気になることがあった。展示のタイトルが「億劫」というのだった。はて、億劫? 絵とどういう関係が? と思い、画家にタイトルの由来をたずねたら、じつは、絵を描くのが億劫なときがあって、といわれた。

 文を書くことも、すごく億劫に感じることがある。それでも、誰にたのまれたわけでもないのに、書いている。書くことがすき、というよりは、読むのがすきだから、かもしれない。日記を読み返すことは、おもしろい。
 昨日読んだマルグリット・デュラスの言葉を書き留めておこう。

 わたしのモデルとなる存在、いいかえれば、わたしのなかに秘められている作家としての存在が、わたしにたいして、わたしの人生を物語る。いまこうしてお話ししているこのわたしは、そこで語られる物語の読者なのです。マルグリット・デュラス 生誕100年 愛と狂気の作家』)
 
 すべての人が書いている、とデュラスはいう。紙に書いたり、ブログに書いたりしなくても、誰もが書いている。
 自分のまわりの限られたことしか記憶できないし、書くことができない。限られているということは、ある意味で、すでに、虚構であって、つまり日記がたのしいのは、自分が、作者にも、読者にも、語り手にも、作中人物にもなれるから、だろう。自分が複数になる。複雑になる。

2022年1月30日日曜日

拾い読み日記 268


 書かないでいると、書けなくなる。どうやって、どうして、書いていたのか、よく、わからない。言葉が遠くにある感じ。話すときは、言葉を意識していない。書くときにはじめて、「言葉」が迫ってくる。そうしたら、言葉が、うまく、使えなくなる。使う、というようなものでなくなる。
 書けないときは読めないときで、このところ、まともに本が読めない。読めないときは、やみくもに、目についた本を開くことになる。ジャック・デリダ『盲者の記憶』は、夫の本棚から。ディドロの手紙が引用されていて、奇妙に惹かれ、そこばかり読んだ。

 (……)闇のなかで書くのはこれが初めてです。この状況は私に、とても優しい想いをいくつも吹きこんでくれるはずです。それなのに、私が感じるのはたった一つ、この闇から出られないという想いです。あなたの姿をひとときでも見たい、その気持ちが私を闇に引き留めます。そして私は話し続けます、書いているものが文字の形をなしているかどうかもわからずに。何もないところにはどこにでも、あなたを愛していると読んでください。

 何もわからなくても、書いたり、作ったりを、続けてみようと思う。いつか、何か、今はわからないことが、わかるかもしれないから。

 今朝、二度寝の前の妄想のなかで、本のページの白い部分が布みたいにおおきくひろがり、やわらかく波うちながら降りてきて、自分をすっぽりとつつんでくれた。


2022年1月16日日曜日

拾い読み日記 267

 
 先月から通いはじめた整体の効果がではじめたようで、腰痛がなくなった。まだ、背中の張りを感じることはあるが、以前よりは、だいぶ、軽くなった。はじめてからだの凝りを感じたのは20歳のころだから、ずいぶん、不調とのつきあいは長い。50歳になろうとして、よくなる、なんてことがあるのだ。

 「名付けようのない踊り」を踊る人の声をラジオで聞いた。聞き始めたら、終わりまで聞きたいと思わせる、何かがあった。声の、深さ、だろうか。とても低いところで響いている。
 言葉が苦手だった、とその人は言った。読んだ本に何が書いてあったか、忘れても、たしかに自分の肉になった。そういう読書をしてきたと。本棚の写真を見た。書庫にただよう雰囲気は、その人の、顔に、からだに、よく似ている。
 
 部屋の本棚をみまわす。これらの本たちと、自分のからだは、どういう関係にあるのだろうか。

2022年1月7日金曜日

拾い読み日記 266


 何の疲れかわからない疲れを感じつつ、本棚の前に立って、目にとまったガートルード・スタインの本を取り出した。

 しゃりしゃりこおったくりーむ、こおるかのじょの湯気、こおるかのじょのしゃりしゃりこおったこおりの海のすばらしくて、ぬきんでていってしまった先立ってぬきんで送られた。(ガートルード・スタイン『地理と戯曲 抄』より)

 何もやる気がしない、と思っていたけれど、何か書く気になってこうして書いているのは、言葉が言葉を呼ぶからだろうか。言葉が言葉を呼ぶ。去年のおわりにみた『偶然と想像』の台詞で聞いた気がする。あの作家は、ある作家を思い出させた。べつに、ぜんぜん似てはいないのに。

 今朝、柿の木に鳩が来て、雪の上をしゃりしゃり音をたてて歩いていた。