2021年4月11日日曜日

拾い読み日記 232

 
 確定申告もぶじにおわりそうで、ほっとして、ひさしぶりにひとりで居酒屋に行ってみた。カウンターで、お刺身とビール。となりと席は離れているが、そうとうのんでいる女性がいて、うるさかった。ひとりでのんでいると、まわりの酔っ払いを、ひややかな目で見てしまう。なんてやばんで、げひんで、ばかっぽいのだろう、と。とはいえ、もし酔っ払ったじぶんがそこにいたら、きっと同じことを思うだろう。

 やってみたいことを思いついて、そわそわして、何も手につかない。スマホを見過ぎるのをやめて、ネットも控えめにしているのに、オセロのゲームをやりはじめたら、一時間以上経っていた。黒が白に、白が黒に、たえまなく裏返っていくさまが、おもしろい。たいてい大敗する。ときどき勝つ。10回に1回くらい。だからやめられないのかもしれない。あそばれているのか。

 山崎方代の歌集『迦葉』を開く。
 
 欄外の人物として生きて来た 夏は酢蛸を召し上がれ

 何者にもなりたくない、という思いに、歌がよりそってくれる。方代が尾形亀之助の詩を愛読していたことは、随筆集『青じその花』で知った。現代詩文庫を駅前の本屋でたまたま見つけて、感激しながら読んだそうだ。
 見えていなかったつながりを知ることは、おもしろいことだ。
 そういえば昨日は、生たこの刺身をたべた。

2021年4月5日月曜日

拾い読み日記 231

  
 ときどき拾い読みしていたが、最近は本棚にあることも忘れていたデイヴィッド・アーモンドの『ミナの物語』を、最初から読んでみようかな、と思いついて、読んでいる。ミナは、とても元気で、たのもしくて、素敵だ。ついていきたくなる。

 世界を見てごらん。においを嗅いで、味わって、耳をすまして、感じて、よく見る。ようく見るんだよ!

 本棚を増やして、本の整理をした。もっともっと片付けて、身も心もすがすがしくしたい。そしたらもっと、ようく見ることができるのではないか。

 まだ4月のはじめなのに、日に日に木が緑色になり、まるで初夏のようだと思う。

2021年3月15日月曜日

拾い読み日記 230


 柿の木に小さな葉がつきはじめて、そのかがやくうすみどり色を見ていると、あかるい気持ちになる。冬のあいだはあまり姿を見せなかったヒヨドリが、たびたびやってくるようになった。今朝、窓を開けると、あわててどこかに飛んでいった。ぴょーんぴょーんと跳ねるようにして飛ぶから、球みたい、と思ってたのしくなる。

 今日は大きな本屋ですきなだけ本を買おう、と決めて、4冊買った。散文詩集、エッセイ集、俳論、小冊子。こころがすこやかになってきたのか、どの本を読んでも、おもしろく感じる。たくさん読みたい。

 制作もしたい。言葉にしたいのか、言葉にできないことをかたちにしたいのか、よくわからない、ちょっと混乱した状態。ただ、何かが胸の奥のほうにあって、それが外に出たがっているような、奇妙な感じがする。


2021年3月4日木曜日

拾い読み日記 229


 柿の木に鳥がやってきて、あまり聞いたことのない声で囀っていた。逆光でよく見えなかったが、メジロのようだった。可憐で、みずみずしくて、複雑で、澄んでいて、美しい音楽を聴いているみたいだった。木は、日のあたるところから芽吹きはじめている。

 白木蓮の花が開きだして、あの花の白は、イエローとシアン、両方はいっているのかな? とかんがえたりして、すこし、しごとでつかれているのかもしれない。

 木蓮は開ききつたり犬を抱く  田中裕明

 開ききったものを見ていると不安になる気持ちは、とてもよくわかる。そういうときは、しっとりとあたたかい、ちいさな生きもののようなもののことを思いだして、胸に抱くように、ずっと思っていたらいい。

 春が近いせいか、気分も上がり下がり、ゆらゆら、ふわふわ、ざわざわした感じ。
 ラジオで聞いた「会いたいね。゜(゜´ω`゜)゜」という曲の長谷川白紙という人の声に、突然、すごくひかれて、そのふるえる糸みたいな繊細な声を聞いていると、からだに小さな震えがはしり、ほんとうに何か、目に見えないものにふれているような気がした。何度もくりかえし聞いているから、そのうちあきるだろうけれど、あきるまでは、聞くだろう。「呼吸で解る飛翔のしくみ」。耳にずっとのこることば。

2021年2月22日月曜日

拾い読み日記 228

 
 急に気温があがり、はやく出かけたくてそわそわする。やや躁状態なのかもしれない。本をどんどん買うのだが、ほとんど読み進められない。それなら書きうつすしかない。

 絵具のにじみ(抱握する形)は、画布の繊維構造(抱握される形)を部分的にうつす記号である。生物の知覚(抱握する形)は、外的環境(抱握される形)を部分的に抽出して変換する記号である。現在の私の思考(抱握する形)は、過去の私や他の者たちの思考(抱握される形)を変換して継続する記号である。

 平倉圭『かたちは思考する』の序章を読んでいて、ここにさしかかったとき、書き留めておかなければ、と思った。たびたびはっとして、顔を上げ、考え込んでしまう本なので、なかなか進まない。それでなくとも、思いがあちらこちらに飛びやすい季節だ。

2021年2月6日土曜日

拾い読み日記 227


 北向きの部屋の窓辺で、目をとじて、シジュウカラのみずみずしいさえずりに耳をかたむけていたら、北窓開く、という季語を思い出した。どんな句があるのかな、と歳時記を開く。

 北窓をひらく誰かに会ふやうに  今井杏太郎

 北窓をひらいて、本をひらいて、言葉に会う。ひとりの時間なのに、人と話しているときみたいに心が浮きたって、さわさわ、ふわふわしている。
 風はまだつめたいけれど、ひかりに春がまじっている。ツツピツツピツツピツツピ。シジュウカラはいつまでもかわいらしい声で鳴いていて、窓辺にならべたぬいぐるみも、うれしそうに見えた。

2021年2月1日月曜日

拾い読み日記 226

 
 昨日の午前中、散歩から帰ってきて窓を開けると、あたたかな日差しとやわらかな風がはいりこんできて、なんとなくなつかしい、いいにおいがした。なんのにおいか、思いだせそうで思いだせなくて、動物みたいに、しばらく鼻をくんくんさせていた。ふと、すきな俳句があたまをかすめた。

 だれかどこかで何かさやけり春隣  万太郎

 耳のあたりがくすぐったくなるような句だな、と思う。耳も、鼻も、おなかのあたりも。みんなが春のうわさをしているみたいだ。ことばを持つもの、持たないもの。ささやきは遠くから、近くから、さらさらと風にのって流れてくる。