2022年12月22日木曜日
2022年12月3日土曜日
拾い読み日記 284
ある本を文字どおり読むことの奴隷となってはなりません。本にはその字面以外の生命があります。(『ロラン・バルト著作集9 ロマネスクの誘惑』)
読めないいいわけをするために、本を読んでいるわけではないのだが、と思いながら、うつしておく。
たとえば、身体的な理由で、本がまったく読めなくなったとしたら、本をすべて手放すか、どうか。想像してみる。こたえは出なくても。
2022年11月29日火曜日
拾い読み日記 283
フリードリヒ・キットラー『書き取りシステム 1800・1900』を読んでいたら、気になる引用があった。リルケ『マルテの手記』の一節のようで、本棚にある岩波文庫版を取り出して、開いてみた。めんどうだけど、探してみるか、と目を落とすと、すぐに見つかった。というか、そこにあった。それで、朝からひとりでもりあがる。わたしの拾い読み力、すごくない? とじまんしてまわりたいが、こういうことは、ほかのひとにはあまりおもしろくないことなのだな、と、夫の反応をみて、わかった。
こういう偶然は、何回経験しても、新鮮に、はっとする。うれしい。偶然は、神のやることだ、とノヴァーリスは書いている。偶然とは、無神論者に下される恩寵にひとしいものにちがいない。というのは、種村季弘の言葉。
『マルテの手記』をうつしておこう。
ここに夜ごとに祈った言葉を自分の手で書き写してある。僕はその言葉を書物のなかに見つけて、それを書き取ったのである。いつもそれを身近に感じ、自分の言葉のように自分の手で書いておくためであった。僕はその言葉をもう一度ここへ写そう。この机の前にひざまずいて書こう。読むだけよりも長くつづき、一語一語が永続し、消えるのに手間どるからである。
読むことが祈りであるということ、そのことがうまくのみこめない。
書いていないから、かもしれない。書くとはどういうことか、ますます、わからなくなっている。ただ入力している(させられている)だけの気がしている。だから、キットラーを読んでいるのだ。
柿の葉がきれいな黄色になって、風に吹かれて散っていく。その様子を、窓を開けたり閉めたりして、飽きることなく眺めている。
2022年11月23日水曜日
拾い読み日記 282
いたずら書きがすきで、昨日の朝も、猫の絵をそのへんの紙に描いていた。描くのはいつも顔ばかりだが、その日はふと、からだも描いてみようかなと思い、てきとうにペンを走らせていたら、それを見ていた夫が、本棚から『11ぴきのねことあほうどり』を取り出して、テーブルに置いた。見て描いたら? というので、見て描いてみる。あほうどりのたくさんいる島に着いた猫たちが、うれしそうに歩いている絵だ。みんな、いい顔をしている。とても愛らしい。
見て描いていると、いつものように、すらすら描けない。線がのびのびしない。ただ、てきとうに手をうごかしているのが、すきなのだ。どうでもいいが、描と猫は字が似ている。
今朝は、猫でないものを描こうとして、アオさんという絵本の馬を描こうとしたが、ぜんぜん、だめだった。知っているものを描けるか、というと、まったくそうではないのだった。あたまと手は、それほどに遠い。
描けるものをてきとうに描く手みたいに、気楽に、のんきに、本を読んでいる。読みたいときに、読みたいように、読んでいる。何が読みたいかは、本棚の前に立つまでは、わからない。なりゆきまかせ。いきあたりばったり。手がのびた本を、読んでいる。
最近、あたらしい本ばかり読んでいたら、息ぐるしくなるな、と思った。読みたい本も、読まなければと思う本も、どんどん出てくるから、とてもおいつかない。伝えようとする力が強い、と感じる本が多くて、心は動くのだが、「今」に閉じ込められている気がしてしまって、すこし、くるしかった。
最近、あたらしい本ばかり読んでいたら、息ぐるしくなるな、と思った。読みたい本も、読まなければと思う本も、どんどん出てくるから、とてもおいつかない。伝えようとする力が強い、と感じる本が多くて、心は動くのだが、「今」に閉じ込められている気がしてしまって、すこし、くるしかった。
ほんとうは、誰からも遠い場所で、本を読みたい。ひとりで本を読む。本を読むためにひとりになる。ひとりになるために本を読む。遠いもの、はるかなもの、あるのかないのかわからないもの。そうしたものの存在を感じられないと、ふじゆうな気持ちになる。
あのころの孤独な魂は
あんな陰気なみずうみを、
楽園になしえたのでした。(『ポー詩集』より)
あんな陰気なみずうみを、
楽園になしえたのでした。(『ポー詩集』より)
雨の音と同じくらい音量をしぼったラジオから、むかしのアイドルの歌が流れていて、意外にそれが、わるくない。すきでもきらいでもない、かすかになつかしい、そんな音楽。うるさくなくて、ここちよい。雨の音が強くなれば、話し声も歌も、遠のいていく。
2022年11月11日金曜日
はるなつあきふゆ/ある日
森雅代さんの作品展「はるなつあきふゆ」のDMをデザインしました。
森さんとは、『冬の木』『雨の日』『窓の韻』をいっしょにつくってきまして、今回の展示でも、森さんの銅版画とヒロイヨミ社が刷った詩があわさった、ちいさな冊子がご覧になれます。ちいさい、というか、ミニマルな冊子です。ごらんいただけたら、うれしいです。11月27日から12月4日まで、つぎのカーブにて開催されます。
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先日おしらせした新刊『ある日』2と3、以下のお店で取り扱ってもらっています。よろしくおねがいいたします。
〈宮城〉
・曲線
〈埼玉〉
〈愛知〉
〈大阪〉
・葉ね文庫
〈奈良〉
〈広島〉
〈山口〉
〈沖縄〉
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最近は、日記がぜんぜん書けなくなってしまいましたが、元気にやっています。
筋トレをはじめたり、組版の講座にいったり、ドラマ(サイレント)をみたり、あちこち出かけたりしています。本はあんまり、読めていません。一昨日は、旧知の編集者、竹中さんが企画された「アナキズムのひろば」にいってきました。高島鈴さんと成田圭祐さんの話、すごくよくて、そのあと、一緒にいったひととのみながら話してたらけっこうもりあがり、だいぶよっぱらってしまいました。
また本が読めるようになったら、日記を書きたいと思います。
2022年11月1日火曜日
ある日
先月、あたらしい本をつくりました。
前につくった『ある日』のつづき、『ある日 2』と『ある日 3』です。
この本は、みたもの、よんだことば、おもったことの記録です。過去に書いた日々の記録をランダムにあつめてきて、一年のながれにそってならべました。
時系列ではないので、日記の本、というわけではなく、かといってフィクションでもなく……日付のある散文集、というのが、いちばん近いような感じがします。とはいえ、どういう本なのか、あいまいにしておきたい、というのが正直な気持ちです。というのは、自分でも、よくわからないからです。
ぜんぶ読まなくてもいい本、どこから読んでもいい本を、つくりたいと思っていました。シンプルに、拾い読みのための小冊子として、すきなところだけ読んでもらえたら、と思います。
まだ出荷中ですので、おちつきましたら、取扱店をおしらせします。
ことしも東久留米市立図書館の開催する図書館フェスにて、「ひとハコ図書館」の館長になりました。「羽ばたくページの図書館」、おとずれていただけたらうれしいです。
ほとんど本が読めなかった10月ですが、集中して本のことをかんがえているときは、実際に本にさわっているような、みたされる感覚があって、とてもおもしろかったです。
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