2020年2月7日金曜日

拾い読み日記 151


 三日前、腰痛を治そうと、とある部分をかたくてまるいものでぐいぐい押したのがよくなかったようで、痛みが増してしまった。しごとのあと、疲れと、痛みと、寒さで、こころぼそくなり、ふとんをしいて乾燥機であたためつつ、からだを横たえた。ねたような、ねないような、つかのまの休息。寝室のちいさな本棚に、『ウンベルト・サバ詩集』があった。

 つらいと
 おもう。そうなってほしい
 とおもうだけ、おもうように
 なってくれない。

 本をてきとうに開いてよむのがすきなのは、そこにささやかな自由があるからだと思う。どこから入ってもいい部屋。勝手に通路をつくっていい空間。
 
 何かを成した、という実感のない日には、ただ、ひとつの詩をよんだ、ということだけを、だれかに、知らせたくなる。
 
 ほんとうなら、ゆっくりと
 起きて、
 生活が、聞きとれぬほどの囁きみたいに
 しか入らない
 部屋がほしいのだけれど。彼女を待っている
 のは、ふんわりとしたアームチェアと本が一冊。
 それから、おしゃべりでない
 考えがひとつ。

 よんだのは、ウンベルト・サバ「三枚の水彩画」より、「2 カッフェラッテ」。
 散文ではあじわえない、改行による空白と変則的なリズムが、ゆっくりとしか歩けないいまの自分に、合っている。つかえながらよむこと。歩くこと。かんがえること。

2020年2月4日火曜日

拾い読み日記 150


 昨日は電車が遅れ、しごとにまにあわないかと思ったが、新宿で乗りかえたので何とか間に合った。中央線はけっこう遅れる。焦りはじめると、本も読めないし音楽も聴けない。新宿駅で、後ろを歩いている(とてもいそいでいる)男に舌打ちされた気がした。
 お昼休み、なんとなく気が向いて、むかし働いていた会社を見に行ったら、ビルはまだあって、介護の会社になっていた。いもやも、豆の木も、李白もないが、靴屋とドトールはまだあった。靴屋でちょっといい革靴を買って、うれしくてよく磨いていたことを思い出した。
 
 帰り、東京堂で『みすず』の読書アンケート特集号を買って、カフェで拾い読みした。ほとんどの本は読んでいないが、読みたい気持ちが高まることは、いいことだ。何でもいいから手当たり次第読みたい気持ち。どんな本を必要としているのかは、読んでみないとわからない。
 
 装幀案に悩んでいて、『ユリイカ』の菊地信義特集号をかばんに入れていったのだが、まったく開かなかった。こういうことはよくある。今朝になってかばんから出してみたら、すこし水に濡れていたので、夫に謝った。自分の本ならいいのだが、夫の本は、もっとていねいに扱ってあげたい。

2020年2月2日日曜日

拾い読み日記 149


 デヴィッド・L・ユーリン『それでも、読書をやめない理由』を読み終えた。

 読みながら、読むとはどういうことか、本とはどういうものか、あれこれかんがえた。「本を読むという行為はさまざまな形態のもとに存在し得る」。確かに、そう思う。それでも、自分が本のかたちにひかれるのは、なぜだろう。

 書き留めておきたいこと。蔵書がもたらす「時間のリアリティ」。文字だけではなく文学を解する脳。世界から離れ、静けさの中で、より広い対話に加わること。「わたしは、まるで夢の中にいるような状態に入っていく。」

 電子書籍で読みたいと思ったことはない。本に触れ、開き、ページをめくる行為から得られるよろこびを、失いたくないから。紙に刷られた文字がすきだから。画面の文字を追うのは、つかれるから。
 ほんとうは、理由はもっとあるはずなのに、書くことができなくて、もどかしい。
 この、はっきりと指さすことのできない「本」の魅力こそが、読書と制作の、動機のひとつでもあるだろう。

 今日の雲は、半透明のやわらかな毛布みたいで、とても気持ちよさそうだった。触れられたらなあ、と上ばかり見て歩いた。

2020年2月1日土曜日

拾い読み日記 148


 今日も快晴。洗濯洗剤が切れていたので、朝、近くのスーパーへ買いに出かけた。土曜日の朝の町はのんびりしていて、爽やかで、木や花を見上げながら歩いているだけで、幸福な気持ちになった。もう少し遠くまで歩いていきたくなったけれど、家に戻り、洗濯したり、皿を洗ったりした。
 日を浴びたコブシのつぼみが愛らしかった。細かいやわらかそうな毛で覆われていて、それが白く光っていて。日向で眠る猫のあたまを連想した。

 読みかけだったデヴィッド・L・ユーリン『それでも、読書をやめない理由』を、ふたたび手にした。もうすぐ読み終わりそう。
 シモーヌ・ヴェーユが引用されていたので、『重力と恩寵』を、少し読んだ。これは、読み終わることはなさそうな本だ。断章形式の本は、読み終えられないので、手放すことも、なかなかできない。歩いて、立ちどまって、見つめて。いったりきたりをくりかえす本。

 星々と花ざかりの果樹。完璧な恒常性と極度のはかなさは、どちらも同じように永遠の感覚を与える。

2020年1月31日金曜日

拾い読み日記 147


 村田沙耶香『コンビニ人間』を読み終えた。
 読み終えたばかりで、ぼうっとしていて、おもしろかった、以外になにを書けばいいのか、わからない。「ふつう」の人間の悪意と好奇心が痛かった。
 ときどきうつくしい文章があった。

 眠れない夜は、今も蠢いているあの透き通ったガラスの箱のことを思う。清潔な水槽の中で、機械仕掛けのように、今もお店は動いている。その光景を思い浮かべていると、店内の音が鼓膜の内側に蘇ってきて、安心して眠りにつくことができる。
 朝になれば、また私は店員になり、世界の歯車になれる。そのことだけが、私を正常な人間にしているのだった。

 大学一年のとき、クラスメートに向けて、それぞれが自己紹介の文章を書く機会があった。自分がなにを書いたかはおぼえていないが、「社会の立派な歯車になりたい」と書いた男子のことはおぼえていて、今ふとその名前を思い出したので検索してしまったところ、どうやら東京の大きな本屋さんではたらいているらしかった。無口で背の高い人だった。彼は、『コンビニ人間』を読んだだろうか。
 検索しておいていうのもへんだが、インターネットって、おそろしい気もする。それでも、彼が本に関わる仕事をしていることがわかって、うれしかった。

 昨日も一昨日もあたたかかったので、今日の寒さはなかなかつらい。コンビニからの帰りに見上げると、空には雲ひとつなく、強い青色が目にしみた。

2020年1月28日火曜日

拾い読み日記 146


 朝、窓から木を眺めると、枝の先に雨滴がいくつも付いていて、その、光るようすや、垂れるようすがきれいで、おもしろいので、しばらく見ていた。そのうち、まるまるした鳥がやってきて、しばらく雨に濡れていた。雪は積もらなかったが、寒い寒い朝。


 ドミニク・チェン『未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために』を読み終えた。読み終えたとはいえ、何も終わっていないような、いま、扉を開けたところのような、そんな読後感だ。

 読んだ人と話をしてみたい、と思った。うまく話せなくても、わかりあえなくても、それでもよくて、きっと何かしら、あたらしいことが見つけられるだろうと思う。人のなかにも、自分のなかにも。

 またたくさんの本を手放して、本棚に余白が生まれた。この余白に何が書かれるだろう。自由な気持ちで街を歩いて、本と会いたい。


2020年1月23日木曜日

拾い読み日記 145


 逸脱、憑依、陶酔、狂気。「精霊たちの水都」。「闇の奥」。時間の織物。なんで自分がここにいるのか。

 昨日、「ミシェル・レリスの魅力と魔力」(千葉文夫×石原海)で書き留めた言葉。なんとしても『ミシェル・レリスの肖像』とレリスの日記を読まなければ、と思った。
 どうして自分はあの場にいたのだろう? いろいろなことはつながっている。

 帰りの電車で、疲れと眠気でふうっと気が遠のきそうになったけれど、ふしぎと、あたたかな手で包まれ、支えられるような感覚があった。目に見えない、やさしい精霊の気配。その直前に、ドミニク・チェン『未来をつくる言葉』を買って、少し読んだからかな、と思った。

 彼女の身体がはじめて自律的に作動したその時、自分の中からあらゆる言葉が喪われた。同時に、とても奇妙なことだったが、いつかおとずれる自分の死が完全に予祝(よしゅく)されたように感じられた。自分という円が一度閉じて、その轍(わだち)の上を小さな新しい輪が、別の軌跡を描きながら、回り始める感覚。自分が生まれたときの光景は覚えてはいないが、こどもの誕生を観察することを通してはじめて、自らの生の成り立ちを実感する気もした。

 読みながら、まるで自分の死もあらかじめ祝われているようだ、と思った。それに、自分の誕生も、さかのぼって祝われているのだと感じて、そして、すべての生と死に、想いはひろがろうとする。それは静かで、確かな、よろこびだった。