2022年12月30日金曜日

拾い読み日記 285

 
 昨夜、喫茶店で、ある夫婦を見かけて、それは何でもない光景なのだが、思いだしたのは、武田百合子の文章だった。妻を愛してない男は、正月三が日はイヤだろうな、というもので、それは、真理だろうな、という気がする。夫を愛してない妻も、きっと正月も、年末も、イヤだろう。いっしょにいても少しもおもしろくない(けれどもいっしょに過ごさざるを得ない)ふたりのために、スマホというものは、つくられたのかもしれない。
 喫茶店で新聞を読んだ。今年を振り返る一枚のなかに、一台の霊柩車にスマホを掲げて写真を撮ろうとする人々の姿をうつしたものがあった。いつだったか、優勝パレードか何かを撮ろうとする無数の手をうつした写真を見たときもそらおそろしかったが、その写真はそれ以上に、こわいような気持ちにさせられた。これは、過剰な反応なのだろうか。

 吉祥寺でよい展示をふたつみた。手で刷られたもの、手で作られたもの、手で描かれたもの。そういうものに力をあたえられる。
 薄暗いお店で、絵は、はっきりとは見えなかったけれど、ただだまって絵のある空間にいるだけで、ある精神に触れられる、ということもあるだろう。帰りに公園でみた冬の木々や月の光とあわせて、記憶しておきたい。それから、水鳥が水にもぐったあとにしずかにひろがった、波紋のことを。

 まもなく今年が終わる。今あたまに残っているのは、先日読んだ水村美苗の文章だ。「第十一夜」(『日本語で読むということ』)
 
 不意に、ものを書いて来たことの罪の意識が自分を襲つた。言葉は死者の眠りを妨げ生者の世界に連れ戻す。生者のこの世とのつながりを奪ひ、死者の世界へと連れ去る。淋しい魂はいづれの世界にも入れずに漂ふのであつた。
 すると其の女が口を開いたやうに思へた
「悲しまないで下さい。あなたの罪は私の救ひでした」

 一昨日、NさんとKさんと映画の話をした。黒川幸則監督の「にわのすなば」がどんなふうによかったか、という話。ふしぎな映画だった。最初は何を見せられているんだろう、と思ってしまったのだが、だんだんひきこまれて、最後は、終わるのが淋しくて、別れの感触が、からだのなかに残された。ラストシーンが素晴らしかった。
 映画のことを思い返せば、主人公とともに、映画そのものがどこかへ漂っていくようで、そういう映画をみることではじめて、気がつくこともあるだろう。映画について、映画をみることについて、みたあとに映画を思うことについて。
 Nさんは、のみはじめると帰るのが苦手になるタイプの人で、そこはあの主人公に似ているし、自分にもそういうところはある。もう一杯のみたいといったが、あそこで同意していたら、たぶん彼は、帰れなかった。

2022年12月28日水曜日

2022/12/28

 


2022年12月23日金曜日

2022/8/15

 

2022年12月22日木曜日

2022/11/30


2022年12月3日土曜日

拾い読み日記 284


 ある本を文字どおり読むことの奴隷となってはなりません。本にはその字面以外の生命があります。(『ロラン・バルト著作集9 ロマネスクの誘惑』)

 読めないいいわけをするために、本を読んでいるわけではないのだが、と思いながら、うつしておく。

 たとえば、身体的な理由で、本がまったく読めなくなったとしたら、本をすべて手放すか、どうか。想像してみる。こたえは出なくても。

2022年11月29日火曜日

拾い読み日記 283

 
 フリードリヒ・キットラー『書き取りシステム 1800・1900』を読んでいたら、気になる引用があった。リルケ『マルテの手記』の一節のようで、本棚にある岩波文庫版を取り出して、開いてみた。めんどうだけど、探してみるか、と目を落とすと、すぐに見つかった。というか、そこにあった。それで、朝からひとりでもりあがる。わたしの拾い読み力、すごくない? とじまんしてまわりたいが、こういうことは、ほかのひとにはあまりおもしろくないことなのだな、と、夫の反応をみて、わかった。
 こういう偶然は、何回経験しても、新鮮に、はっとする。うれしい。偶然は、神のやることだ、とノヴァーリスは書いている。偶然とは、無神論者に下される恩寵にひとしいものにちがいない。というのは、種村季弘の言葉。

 『マルテの手記』をうつしておこう。

 ここに夜ごとに祈った言葉を自分の手で書き写してある。僕はその言葉を書物のなかに見つけて、それを書き取ったのである。いつもそれを身近に感じ、自分の言葉のように自分の手で書いておくためであった。僕はその言葉をもう一度ここへ写そう。この机の前にひざまずいて書こう。読むだけよりも長くつづき、一語一語が永続し、消えるのに手間どるからである。
 
 読むことが祈りであるということ、そのことがうまくのみこめない。
 書いていないから、かもしれない。書くとはどういうことか、ますます、わからなくなっている。ただ入力している(させられている)だけの気がしている。だから、キットラーを読んでいるのだ。
 
 柿の葉がきれいな黄色になって、風に吹かれて散っていく。その様子を、窓を開けたり閉めたりして、飽きることなく眺めている。

2022年11月23日水曜日

拾い読み日記 282


 いたずら書きがすきで、昨日の朝も、猫の絵をそのへんの紙に描いていた。描くのはいつも顔ばかりだが、その日はふと、からだも描いてみようかなと思い、てきとうにペンを走らせていたら、それを見ていた夫が、本棚から『11ぴきのねことあほうどり』を取り出して、テーブルに置いた。見て描いたら? というので、見て描いてみる。あほうどりのたくさんいる島に着いた猫たちが、うれしそうに歩いている絵だ。みんな、いい顔をしている。とても愛らしい。 
 見て描いていると、いつものように、すらすら描けない。線がのびのびしない。ただ、てきとうに手をうごかしているのが、すきなのだ。どうでもいいが、描と猫は字が似ている。
 今朝は、猫でないものを描こうとして、アオさんという絵本の馬を描こうとしたが、ぜんぜん、だめだった。知っているものを描けるか、というと、まったくそうではないのだった。あたまと手は、それほどに遠い。

 描けるものをてきとうに描く手みたいに、気楽に、のんきに、本を読んでいる。読みたいときに、読みたいように、読んでいる。何が読みたいかは、本棚の前に立つまでは、わからない。なりゆきまかせ。いきあたりばったり。手がのびた本を、読んでいる。
 最近、あたらしい本ばかり読んでいたら、息ぐるしくなるな、と思った。読みたい本も、読まなければと思う本も、どんどん出てくるから、とてもおいつかない。伝えようとする力が強い、と感じる本が多くて、心は動くのだが、「今」に閉じ込められている気がしてしまって、すこし、くるしかった。

 ほんとうは、誰からも遠い場所で、本を読みたい。ひとりで本を読む。本を読むためにひとりになる。ひとりになるために本を読む。遠いもの、はるかなもの、あるのかないのかわからないもの。そうしたものの存在を感じられないと、ふじゆうな気持ちになる。

 あのころの孤独な魂は
 あんな陰気なみずうみを、
   楽園になしえたのでした。(『ポー詩集』より)

 雨の音と同じくらい音量をしぼったラジオから、むかしのアイドルの歌が流れていて、意外にそれが、わるくない。すきでもきらいでもない、かすかになつかしい、そんな音楽。うるさくなくて、ここちよい。雨の音が強くなれば、話し声も歌も、遠のいていく。