2022年8月4日木曜日

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2022年8月3日水曜日

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2022年7月16日土曜日

拾い読み日記 279

 
 夢でたくさんのひとに会ったので、すこしくたびれている朝。今日も空は灰色で、閉じ込められている感じがする。光がほしい。

 制作のため、毎日自分の書いた言葉を読む、それにも疲れてきている。作りたいという意欲をなくさないうちに入稿してしまいたい。

 引用した箇所を探そうとして全五巻の全集をめくっていって、なかなか見つからなくて、もうどうしようか、とあきらめかけているときに開いたページの、目を落とした行に、探していた言葉があった。はっとして、顔をあげる。心臓をギュッと摑まれたような感覚。いや、そこになにか特別な意味を見出してしまうような人間だから、こういうことをやっているんだろうな、とも思う。もちろん、こんなことはただの偶然だということはわかっている。だが、本にあそばれているようで、うれしい

 この詩人はただ詩或は単に言葉と一しよにゐたかつた。日常の生活は不断の地獄の連続であり、ものを書くときだけがたのしい日曜日である、と。言葉と一しよにゐるだけでよい。このとき、もう嘘もほんたうもおなじやうに、彼にとつて真実なのだ。

 立原道造の手紙から。

 日常の生活を地獄だと感じてはいないが、本を読むのは、「出口」を求めているからではないのか、と最近思いいたった。であるならば、何かしら、そこから出たいような場所にいる、ということだろうか。それもなんだかちがう気がする。
 「通路」といったらどうだろう。この世界と、この世界ではない世界との。

 こんなことをかんがえてしまうのも、ただ最近の、重たい空の色のせいかもしれなくて、もし今日が晴れて暑い夏の日だったら、ぜんぜんちがうことを書いていた気もする。

2022年6月24日金曜日

本をひらくと(の続き)




 狩野岳朗さんとつくった『本をひらくと』、 手元の在庫ものこり少なくなりまして、あらためて、お求めくださったみなさまに、お礼もうしあげます。
 えほんやるすばんばんするかいしゃでの展示のあとに、お取り扱いいただいているお店は、以下です。遅ればせのお知らせとなりましたが、どうぞよろしくお願いいたします。

〈宮城〉

〈長野〉


〈埼玉〉

〈愛知〉

〈奈良〉

〈広島〉

〈山口〉

〈愛媛県〉

〈福岡〉


 いつになく、お読みいただいた方からのご感想もいただいたりして、うれしいです。お店の方が、それぞれのことばで紹介してくださっているのも、とてもありがたく、うれしいねえ、ときのう狩野さんと話していました。
 本の本も、絵本も、またつくってみたいなあ、と思っています。

 
追伸 12月の打ち上げでみんながちょっとずつ音読してくれたのも、(あのときははずかしかったけれど)よい思い出

2022年6月12日日曜日

拾い読み日記 278


 右腕の付け根あたりがいままでにない感じで痛むので、いつもの整体にいったのだが、なかなかよくならない。それで、電車に乗って遠くの整体にいった。背中で筋違いが起きているようで、それでへんに腕が痛むらしい。いろいろたずねられる。床で寝ましたか? いそがしいんですか? いずれにも、いいえ、とこたえる。
 ひとつ、思い当たることといえば、夫の誕生日の前祝いの日にのみすぎて、その晩はすごくねぐるしかった、ということだ。グウとかゴウとか、ガ行のいびきも、かいていたらしい。そういわれても、しんじられない。こんど録音しておいて、とたのんでおく。
 思い返せば、その日あたりから、からだのぐあいがわるかった。でも今は、よくなりつつある。そう感じられる。だから、多少痛みはのこるが、さほど気にせずにいられる。
 のみすぎないようにしたいけれど、ときどきは羽目をはずさないと、どこかで大きなあやまちをおかす気もする。

 また『ある日』をつくろうとしていて、この10年ほどのあいだに書いたものを読み返していた。書いたことば、書かれたことばにわけいっていくような作業。まるで夢のなかにはいっていくようだ。だんだん、くらくらしてくる。いったい何をやっているのだろう、と思う。それだからおもしろいのだ、とも思う。

 きみの指に展かるるまでほのぐらき独語のままの封書一通  横山未来子

 かつて書き留めておいた短歌を読み返して、〈手紙〉に、〈本〉に思いを馳せる。
 画面上の言葉には、仄暗さがない。つねにひらかれているから。〈手紙〉に、〈本〉に、ここまでこころをとらえられるのは、それらが必然的にはらんでしまう暗さのためかもしれない。

2022年6月3日金曜日

拾い読み日記 277


  文体が身体になじんできたためか、どこででもよめるようになり、外でも家でも『感受体のおどり』をよんでいて、ちょうどはんぶんまできたところで、手をみた。本をよんでいる自分の手のなかに本があって、左手にはこれまでよんだページが、右手にはこれからよむページがある。手の指で、その束がはさまれている。紙の束であり、時間の束でもある。どれくらいかかってここまできたのかは、だいたいわかる。どのくらいでおわるのかは、今はまだわからない。すすんでいけば、右手の束が減っていって、尽きたところで、おわる。気が変わったり、なにかが起きたりして、尽きないかもしれない。
 
 40回目の誕生日に、一抹の感慨とともに、折り返しかな、とつぶやいたことを思い出した。あれはべつに、半分まできた、という思いからではなかった。たぶん、おわりがみえてきた、ということだった。おわりのほうに、あたまが向いた、ということだ。

 この小説がおわること、よみおわることが視界にはいり、ここですこしやすんで、ただ、紙の束をながめていたい気もする。しかし、よみおわるとは、どういうことだろう。
 
 束がばらばらになりページからことばが放たれて、おりおりにそのことばを、本をひらかずしてよんでいくような本がある。「塊まりであれば壊すことができる。しかし、あらゆる場所に存在していたら、根こそぎになどできようか」、というユゴーの小説の一節がよぎったので書き留めておいて(ミシェル・ビュトール『レペルトワールⅡ』より)、よみながら、あたまは、「本」に、本という「もの」のほうにふれていって、はたしてこんなふうで、よみおえられるのだろうか。かなり、混乱している。

2022年5月27日金曜日

拾い読み日記 276


  ききなれない鳥の声がするので窓を開けてベランダに出てみると、手をのばせば届きそうなくらい近くの枝にヒヨドリがやってきて、ひと鳴きした。ピョーだったか、ピヤアーだったか、奇声みたいな囀りに、びくっとする。あたまに日があたり、さかだった毛やみひらいた目や鋭利な嘴が、強くひかった。したしみの表現だったのか、威嚇だったのか、たぶんどちらでもないと思うが、しばらくのあいだ、鳥の殺傷能力についてかんがえさせられた。

 黒田夏子『感受体のおどり』をよみすすめる。本の重さが気になりつつ、でもつづきがよみたいからかばんに入れてきたのに、外ではぜんぜんよめなかった。ことばがはいってこないし、ひびいてこない。つかれていたせいだろうか。家にもどり、すこしねむり、あたまもからだも軽くなってからでは、よむことができた。それに、部屋のなかでよむことは、思ったより、おおきいことなのかもしれない。よむときには、からだのなかだけでなく、部屋ぜんたいが、ことばをひびかせるための空間になる。ほかにひとのいない部屋のほうが、ことばは、よくひびく。

こういうおもいを,ひらめく葉うらのほの白さのようなものを,まだ書いたことがなかったとかんがえた.目ざましいものではなくてかすかなものを,他をしのぐものではなくて他がこぼすものを,あらしめること,あらしめようと目ざすことが,私のおぼろな手さぐりの遠いこたえになりそうだとふいにさとった.(「第77番」より)

 帰りの道で、みたもののことを思いだした。ほわほわした綿毛のような葉がいっぱいついた木で、みあげたとき、羽がそのまま木になりかわったように感じられ、からだもすこし浮くようだった。木の名前はしらない。

 この小説をよみはじめてから、思うこと、感じること、思いだすことのひとつひとつが、それまでとはちがう重さを持つようになり、身のうちにおさめておくとかさばるので、すぐさま書きことばに変えたくなる。ひとつの小説をよみつづける、とらわれるということは、あやういことだと思った。日記がいくらでも書ける、ということの異常。ほかの本たちが遠のいていく、代わりがきかない、という点においても、読みふけることは恋いしたうということによくにている。