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世界はかように動揺する。自分はこの動揺を見ている。けれどもそれに加わる事は出来ない。自分の世界と、現実の世界は一つ平面に並んでおりながら、どこも接触していない。そうして現実の世界は、かように動揺して、自分を置き去りにして行ってしまう。甚だ不安である。(夏目漱石『三四郎』新潮文庫)
『三四郎』を読むのは大学のとき以来で、当時はほとんどおもしろいとは思わなかったと思うのだが、ぜんぶ読んだところをみると、じつは、おもしろいと思ったのだろうか。それとも、むかしは今より忍耐づよくて、おもしろいと思わなくても、読めたのだろうか。いずれにしても、今は、わりと、おもしろいと思う。
東京という都市と、「都会的」な人々と、大学生活。はじめて出くわすものごとに動揺しつつも平気なふりをしていたことなどが、思い出された。
先日、たまたま、岩元禎という人を知ったことから、『三四郎』が読みたくなったのだった。昨日、少しだけ古本屋で店番した帰りに、何か物足りない思いで立ち寄った、TSUTAYAで買った。文庫本ばかり、3冊買った。大学一年生のころも、こうやって所在なく、本屋で文庫本ばかり買っていた。
朝10時ごろ、隣のアパートからおじいさんがつぎつぎあらわれて、自転車に乗ってどこかにいく。スーパーだろうか? おちつかない朝だ。今日は混みそうだから、買いものにはいかないことにする。
仕事をしなくては、と思いながら、いろんなことが気になって、なかなか順調にはすすまない。
本屋さんはどうなるのだろう。ヒロイヨミ社の本を置いてもらっている書店のことも、かまくらブックフェスタを開催中の書店のことも、夫の古本屋のことも、それぞれに、気になる。ネットで本を買うことがどうも苦手なので、町の本屋が閉まると、どうしようか、とも思う。
けれど、ひとりのあたまとからだで、すべての問題を抱えこむことはできない。矛盾にもジレンマにも、何らかのかたちで、折り合いをつけていくしかない。みんなつかれているのだから、それぞれの折り合いのつけかたを、だいじにしたい。
もともとひきこもりがちなので、外出を自粛することには、そんなにストレスは感じない。家にいるだけで人のためになっているなんて、昼寝しても、怠けていても、ちょっといいことをしている気持ちになる。いや、実際、いいことなのだ。もっと、仕事の合間をぬって、ごろごろしたい。
このところ、「みんなでがんばろう」とか「一丸となってたたかおう」とかいう空気に、疲れている。そうしたものとは、社会的距離だけでなく、精神的距離も、どうにか保ちたい。
そう思って、ひさしぶりに、リンドバーグ夫人『海からの贈物』(吉田健一訳、新潮文庫)を手にした。
それはただそこにあって、空間を満たしているだけなのである。この騒音が止(や)んでも、それに代って聞えてくる内的な音楽というものがなくて、私たちは今日、一人でいることをもう一度初めから覚え直さなければならないのである。
「もう一度初めから」。読書をしたい。その時間は、じゅうぶん、与えられた。
6日ぶりに電車に乗った。窓から町を眺めていて、流れていく景色の中に桜の色もまざっていて、春だなあ、と思った。電車はすいていて、つかのまのんびりした気持ちになるが、ときどきマスクで眼鏡がくもって、現実に戻る。
今日で閉店する荻窪のささま書店へ。棚を見て、気になる本を開いて読んでいると、今日で閉店ということも忘れてしまう。
ひとりになり、買った本たちに触れていると、何だかむしょうにさみしくなるけれど、このさみしさは、本で埋めるほかない。
こんにちは
新年おめでとう
ご幸運を
頑張って
召し上がれ
お気をつけて!
どうか、無口のせいで鬱々としているきみに言葉が戻ってきますように!
どうか、白い紙でできたきみの経帷子に生き生きとしたアラベスク模様がインクで描かれますように!
どうか、きみのなかで蜘蛛が巣を張り、その巣に蠅がきみの思いどおりに引っかかりますように!
どうか、きみがノートを広げているテーブルが帆船となり、その帆に風が吹いて舟が動きますように!
ミシェル・レリス『オランピアの頸のリボン』(谷昌親訳、人文書院)より。「広くて楽しい古本屋」で最後に買った本。
本が生きのび、生きなおす古本屋という空間は、誰にでも開かれているのに、親密で、きっと人はそこで、文学の秘密にも、知らず知らず触れている。
あの、大らかなのに、人を深く引き込むような空間は、そのまま、「本」だった、といいたくなる。
小さい歯 U幼稚園で
菅原克己
小さい歯がよく光った。
風も光った。
ぼくはすぐわかる、
声々をちらばせながら
やさしい時が通って行くのを。
駈け出してはすぐもどる。
小さい股が空気を打つ。
蒼い影がまわりをひたす。
小魚たちがひらひらしながら
その光を刺してゆく
抵抗のない水のように。
今朝は何かあかるい詩が読みたくなり、「朝」という詩を思い出して『菅原克己詩集』(現代詩文庫)を手にとった。
べつの詩にこころひかれる。
小さい歯の白がまぶしい。小さいものはよく光る。
往来をゆく子どもが、「こんにちは」「こんにちは」と元気な声で、だれかに挨拶している。すこしわざとらしいくらい元気な声だ。
ふたりは欠けていて
むねのうちを うすもものはなびら さらさらと流れ くるしい夜が続いていた
一文字の口唇からともしれず しのびねの ほとほととたたく瀬戸のうす明りにも
はなは さらさらさらさらと降っていた
(三井葉子「さくら」)
昨日、夜道を歩いていて、桜に行きあい、この、さらさらという音を、聞いたように思った。人のゆく道でも、ゆかない道でも、桜はみごとに咲いていて、風にゆられて、雨にぬれて、もう、散ってしまうのだろうか。
今日も快晴。窓辺で柿の木の若葉をみながら、お花見気分でビールをのんだ。若葉は光に透けて、あざやかで、可憐で、眺めていると、じわじわと、春がきたよろこびがこみあげてくる。これまでにみた桜や、お花見の時間がしぜんと思い出されて、ひとりだけれど、ぜんぜん淋しくはなかった。葉は、近くでよく見ると細かい毛に覆われていて、いきているもの、という感じがする。
さくらももこ『ひとりずもう』(上下、集英社文庫)を読んだ。中学生になった「まるちゃん」が、高校生になり、短大生になり、漫画家になる。十代のころ、こんなふうに、だらだらしたり、もやもやしたりしていた。48歳の今も、同じように、だらだらしたり、もやもやしたりしている。
そういえば、今日は、高校生のころの友人と再会する夢をみた。高校三年のとき、二人でお弁当をたべていた人だったが、同じ大学に入ったとたん、つきあいが途絶えた。そんな、淡い感じの友人だったが、それでも、なつかしかった。
夜、ドミニク・チェン『未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために』(新潮社)を、ふたたび手にする。
吃音というバグを抱えながら、少年のわたしはある時から書き言葉の世界に没頭した。それは執筆という、じっくりと時間をかけて完成させる表現行為を通して、言うことを聞かない身体から解放される感覚を抱いたからかもしれない。書くことによって、世界はただ受容するものであるだけではなく、自ら作り出す対象でもあるとわかったのだ。そして、世界を作り出す動きの中でのみ、自分の同一性がかたちづくられるのだということも。
このところ、もやもやかんがえていたことに、ひとつのこたえが与えられたように思われたので、書き留めておく。
組版の会社でアルバイトをさせてもらいながらInDesignをきちんとおぼえようとして、もう2ヶ月ほど経つが、まだぜんぜん、使いこなせない。レッスンとして、自分の日記を組んでみようとして、あちこちで、つまずいている。
本を一冊組めるようになるのは、いつのことだろうか。遠い目になる。
日記をちらちら読み返すと、ほとんど忘れていることばかり。でも、縦になるのは、おもしろい。ときどき、今の自分への手紙みたいな言葉も見いだす。思いも考えも感覚も、どんどん、変わっていく。かつての自分は、親しい他人だ。
書くとは、時間の不在の幻惑に身を委ねることだ。われわれは、おそらく、ここで、孤独の本質に近づいている。(モーリス・ブランショ『文学空間』粟津則雄・出口裕弘訳、現代思潮社)
何を書くかは、置いておく。どのように書いていくか、最近はそのことばかり、かんがえているようだ。