2018年2月17日土曜日

拾い読み日記 14


 217日。朝はおだやかに晴れていたが、午後から曇り、強い風。一瞬、嵐のような。窓を少し開けてみたら、畑の土が布のように巻き上がってこちらに向かってきて、おそろしかった。しばらくすると、また晴れてきた。でも風は強く、寒い。
 午前中、ムナーリの本を手にした。すきな文章がある。「本の前の本」の章。

「いつだったか,  わたしが飛行機で北極の上空を飛んでいると(わたしは日本に向かっていたのだ),  明るい光にみちたグレーの霧の中に入り込んだ。まるで澄み切った空気の,  大きなシャボン玉に入り込んだようだった。ある時点で,  そのぼんやりと光を放つ霧の中が橙の光に染まった。夕焼けだった。ややあって,  その光から白い円盤が現われた。月だった。白い円盤は消え,  橙の光は燃立つような美しい赤になった。朝焼けだった。そのとき,  わたしはこの驚きによって,  朝日と夕日は相対する2つの視点から見た同一のもので,  日暮れと日の出は連なってこの世界に現われるのだということを理解したのである。」(ブルーノ・ムナーリ『モノからモノが生まれる』)

 この美しく不思議な光景をあたまに浮かべながら、今日はねむりたい。
昼間はフィギュアを見て、終わったあと、ちょっと疲れてぼんやりしてしまった。あんなにくるくる回れるなんて、どんな気分なのだろうか、と思う。

2018年2月16日金曜日

拾い読み日記 13


 夜に日記を書くと暗い感じになるので、昼間書いている。2月16日金曜日。このところ、一週間があっという間に過ぎていく気がする。一生も、こんなふうにすぐに過ぎるのではないかと思う。

 昨日拾い読みしていたのは『現代詩手帖』1974年10月臨時増刊号の瀧口修造特集。磯崎新、大岡信、清水徹、入沢康夫の座談会を興味ぶかく読んだ。いくつかメモ。

・瀧口さんがビュトールとすごく似ている。詩と絵画、言葉と形象の結びつきを探る方向において、「遊びめいた手造りの仕事」を好む点で。(清水)

・ムナーリのグループによる動く彫刻の展覧会、人気のない、さびれた雰囲気の会場。ぽつんと坐っている瀧口夫妻。そこで話し込んだのが最初の出会い。「その偶然の出会いでわたしは決定的に目がひらかれたように感じています。」「瀧口さんの存在は、存在自体が触媒のようなもので、最小限の身振りで、たいへんな量の自由を獲得する不思議な作用がある気がします」(磯崎)

・「いわば言語化されている言語ではなくて、言語化される前の言語ということをたえず考えている。」(大岡) 

・部屋について。「瀧口さん自身が不思議なネガになって、たくさんの瀧口さんのために作られた物体が、いわばポジとして集まっている」(大岡)

・「何か知れない偉大な遊びの破片」、ヴァレリーがダヴィンチについて言った言葉が当てはまる。(清水)

 今日は旧正月、春節。昨日よりは気温が低いが、陽射しはあたたかい。家にいて、来月の展示のための準備をする予定。
 あとでまた俳句を読みたい。短いこと、言葉が少ないことに自由を感じているのかもしれない。余裕がなくても、すうっと隙間に入り込める(入り込まれる)感じ。夫から借りた『リボン』(上田信治)は、心の風通しをよくしてくれる。外で、日のひかりの中で、ゆっくりと読みたいような句がたくさんあった。
  
  春の蟹わあつと笑ふ女のひと
 
  春を走る子らに取り囲まれ抜かされ
 
  小型犬抱いてわかもの花散る日  

  リボン美しあふれるやうにほどけゆく

2018年2月15日木曜日

拾い読み日記 12

 215日。春のような陽射しに、こころが軽くなる。「目を閉じて鳥のかたちに飛んでゆく」。家を出た瞬間に降ってきた言葉。五七五だが、季語がない。

 電車を乗り継いで「影どもの住む部屋」へ。ふしぎな展示だった。静かすぎて少し緊張した。瀧口の笑顔がめずらしくて、ある写真をつくづくと眺める。いつも、親戚の誰かに似ている、と思うが、具体的に誰だかわからない。どことなくなつかしい顔。写真の中の、所在なげな、放心したような表情が好きだったが、笑顔もとても素敵だった。冊子をもらった。文字組みが横組み、ノドを跨いで見開きいっぱいに一行。行末から行頭へ、視線の動きが大きすぎて、意味がなかなか摑めない。元気なときなら読めるだろうか。

 句集も鞄に入れていった。中村苑子『白鳥の歌』という小さな本。

  春の日やあの世この世と馬車を駆り

  帰らざればわが空席に散る桜

  再びは逢はぬ人かも鳥雲に

  死後の春先づ長箸がゆき交ひて

 「長箸」とは、自分の骨が拾われる箸だろうか? 底の知れない深いみずうみをのぞきこんだような気持ちになる。中村苑子は1月5日に亡くなっている。70のときに、60の重信を亡くしたことを知る。

2018年2月14日水曜日

拾い読み日記 11

 214日。午前中は言葉をさがしていて、たくさんの本を開いて、詩や俳句を読んだ。夏目漱石、宮沢賢治、立原道造、などなど。結局、これかな、と思ったのは西東三鬼の句。「八月の言葉」として刷る予定。
 お昼すぎ、佐々木活字店に発注のファクシミリを送り、疲れたのとほっとしたのとで、しばらく寝転がって休んだ。言葉を探すのは、森に迷いこむみたいで、楽しい作業ではあるが、集中力が要る。あたまが熱をもったようになって疲れる。
 このあいだから夫につられて俳句をつくりはじめた。今日はバレンタインデイなので、それにちなんだ、たとえば恋の句を作ってみよう、と持ちかけられる。いくつかできた。俳句の本をもっと読みたいと思い、恩田侑布子『余白の祭』など少し読む。桂信子にひかれた。

  やはらかき身を月光の中に容れ

 夕方、店番で水中書店へ。また俳句の本がよく売れたみたいだ。帳場で少し読書。八上桐子『hibi』など。カバーの手触りがもさもさして素敵な本。上田信治『リボン』を借りて帰った。

2018年2月13日火曜日

拾い読み日記 10

 2月13日。朝10時半ごろ出かける。午前中、外を歩くのはひさしぶりなので、光の感じが、なつかしいような、まぶしいような、おもしろいような、ふしぎな感じがした。夫と喫茶店でモーニング。話したり、本を読んだり、新聞を読んだり。ふだんとちがうことをしたせいか、旅先みたいで楽しかった。夫は『誰でもない』という韓国の小説を、自分は、文庫の『須賀敦子全集』7巻を持っていって、目についたところを読んだ。『どんぐりのたわごと』と日記が読めるこの巻を、買ってよかったと思う。銀座の交差点近くの、時が止まったような本屋で買った。10年以上前に入荷し、売れ残った本がそのまま置いてあるようだった。店にはほかに誰もいなくて、静かで、わりと広かったが、何か買わないと出られない、というよりは、気がすまない感じがしたことを覚えている。淋しい本屋だった。今朝気がついたが、背の黄色がだいぶ褪色している。

「詩人とは――それがほんものの詩人であった場合――一体なにものでしょうか。これは前にも、よそで申したことがあるのですが、詩人とは――ひとくちには申しにくいでしょうが――何よりもまず私は、いつのまにか成人した自分におきてくることどもに、ただもう目を瞠っておどろいている子供だといって差支ないとおもうのです。」(ウンベルト・サバ「詩人とはなにか」須賀敦子訳)

 今朝この本を読もうと決めたのは、開いたページにこの言葉があったからだった。
 家に帰ると、気がかりなことを思い出して、仕事にも集中できず、本もぜんぜん読めない。aと電話で話した。きっと明日には、気分も変わるだろうと思う。


2017年12月29日金曜日

一月の冊子をつくる




今年も、あと、3日になりました。
今朝は庭に霜柱が立っていました。さくっと踏んでみると、朝日があたってきらきら輝いて、とても綺麗でした。寒い日が続いていますが、風邪もひかずに元気ですごしています。

年があけて一月に、銅版画家の森雅代さんと、ワークショップをやります。「八月の冊子をつくる」に続いて、2回目です。前回はエッチングでつくりましたが、今回は、アクアチント+エッチングで、冬の版画をつくります。詩は、季節にあわせてわたしが選んで刷ったものですが、事前に下絵を準備してきたい方には、あらかじめお知らせします。同じ詩から、さまざまな冊子ができるのが、ほんとうにおもしろいです。言葉とむかいあって手を動かす静かな時間は、なんだかとても、よいものだと思います。
版画は、冊子に貼付するものだけでなく、紙やインクを変えて、何枚か刷ることもできます。版画のたのしさ、不思議さを、一緒に体験できたらいいなと思います。
銅版画がすきな方、やってみたい方、ぜひご参加いただけたらうれしいです。どうぞよろしくお願いします。

図版は、森雅代+ヒロイヨミ社『冬の木』(2011年制作)より、森雅代さんによる「ユリノキ」です

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一月の冊子をつくる

ヒロイヨミ社が活版で刷った一篇の詩にあわせて、アクアチント+エッチングで版画をつくり、それを糸綴じの冊子に仕立てます。

・日時=1月20日(土)、21日(日) 14時〜(3時間程度)
・参加費=3000円
・定員=各回4名
・場所=森雅代銅版画教室
 豊島区南池袋1-13-15 アルファシティ池袋206号(池袋駅より徒歩6分ほど)
・申し込み/問い合わせ=山元伸子(ヒロイヨミ社)までメールをお送りください。


2017年12月22日金曜日

拾い読み日記 9



 12月22日。昨日は家から出なかった。清水徹『ヴァレリー 知性と感性の相剋』を読み終えた。今はあたまがうまく働かなくて、要約ができない。要約は苦手だ。最後の恋愛の終わり方に胸が痛んだ。激しい恋はいつだって痛いものだが、それがなければ、ヴァレリーはヴァレリーではなかった。

「だから、生きようとする意志よりも、理解する能力よりも、このいまいましい——C〔心情〕の奴のほうが強いのである。╱《心情》——これは不適切な呼び方だ。わたしは——すくなくとも、この恐るべき共鳴装置に、適切な名前を見つけたかった。」

 ノート(「カイエ」)にそう書きつけて、二ヶ月後にヴァレリーは逝ってしまう。
 3年前、『テスト氏』を手にしたとき、ひかれた言葉がある。「彼は、彼だけが織ったり、断ったり、つくろったり出来る網の目のなかに、たえず人を迷いこませてしまうのです」。きっと、誰かのことを思い浮かべていたのだろうが、誰のことだかもう忘れた。まわりには、知性と感性がとっても豊かな人が多い気がする。恋でなくても迷いこんでしまうこともある。
 
 今日はおそるおそる出かけてみた。足は少し痛むが、だいじょうぶみたいだ。駅前の喫茶店でガストン・バシュラール『空間の詩学』を少しだけ読んだ。  

「共鳴においてわれわれは詩をききとり、反響においてわれわれは詩をかたり、詩はわれわれのものとなる。反響は存在を反転させる。詩人の存在がまるでわれわれの存在のようにおもえる。」
 
 今年の仕事はあとひとつ。それが終わったら年賀状を刷ろうと思う。冬至なので柚子を一個買った。