2019年3月14日木曜日

拾い読み日記 95


 紙は本のために改良を重ねられ、印刷や製本の技術は、紙の本のために工夫されつづけてきたから、私たちは紙を離れた本を想像しにくい。両親の膝元まで抱えていけること、ひとりの寝床に持ちこめること、書き入れで汚すことができること、お守りのように手元に置きつづけられること。これらはみな、紙の本だから得られた幸福で、もし紙を離れたなら失われてしまうかのように思えてしまうかもしれない。けれども、そんな幸福を人が手放すはずはないのだから、紙を離れた本など普及しないか、たとえ離れたとしても、あくまで紙の本の忠実な後継者であるはずだと楽観することもできる。
 人生のおわりの本がどんなものか、誰にもわからないように、歴史における本のおわりも、想像することは難しいけれども、本のはじまりを常に思い起こすことはできるし、それは、私たちが長い時間――歴史でも人生でも――をかけて手に入れた、数々の幸福をなおざりにしないことにつながるはずだ。(齋藤希史「数々の幸福」/『季刊 本とコンピュータ』終刊号   2005.6)

 この文章が載っていた「本とコンピュータ」、最後のテーマは「はじまりの本、おわりの本。」で、それは引っ越しのときに手放してしまったけれど、このページだけ、写真に撮っておいた。文章の、内容にも惹かれるが、句読点によってつくられる、独特の間合い、呼吸が、気持ちよいのだと思う。何度読んでも、新鮮に感じる。

 ある出来事によって、思いのほか、傷ついているのかもしれない、と昨夜、とつぜん、感じた。自分の身に起こった出来事ではないし、身近に感じていた人のことでもない。関係がないといえば、あまり関係がないのに、どうしてか、胸がいたむ感じがした。
 隠されていた、人の孤独や弱さというものを、抉るようにして見せられたのだと思う。そういうものは、もちろん、抜きがたく、自分のなかにもあるから、ひとごとといって切り離せるものでもない。
 揺れたり沈んだりしながら、心から、本が必要だと思った。さまざまなことに目をそらさず、感情的にならず、向かいあえる言葉がほしい。
 本がそばにあれば、きっと、絶望しないでいられると思う。橋であり、梯子でもあるような本。