2019年3月10日日曜日

拾い読み日記 92


 曇りだけれど寒くはない。どことなく春の感じがする。沈丁花がにおうと、幸せな気持ちになる。先月のおわりだったか、歩いていて、ひさしぶりに沈丁花のにおいがしたとき、何のにおいかすぐにはわからなくて、立ち止まって、振り返った。においなのか何なのかもはっきりとはわからなくて、ただ、少しのあいだ、立ち尽くしていた。ふいに、清らかで甘くなつかしいものに触れられたような感覚が残っている。沈丁花に、呼び止められたのだ。


 昨日は蔵前のH.A.Bookstoreに『ほんほん蒸気』の精算に行き、山崎方代『青じその花』を見つけて買った。


 帰り、荻窪で降りて、ささま書店へ。3冊の本を買った。そのあと、喫茶店で、ゆっくりとそれらを繙く時間は、何にもかえがたい。


 方代さんの、愛用の土瓶についての文章が、よかった。捨ててあったものを拾って、とりあえず、と使い続けて、18年もいっしょにいる、土瓶。


(……)ひとり者の私にとっては、もう身内の一人である。とりとめのない旅から帰ってきた時などは「お前さん、帰ってきたよ」と声をかける。よくもまあ、この暗い小屋の中であきもせず嘆きもせず、置かれたままですましこんでいられたものだ。立派な人間のようにこれほどまでに親しく私を慰めてくれたものはそう数多くはないのだ。見ているとこのへんてつもないかりそめの泥の土瓶の顔が私の顔に重なる。

 ここに私が坐っている。土瓶がそこに存在する。この離れがたい空間のもどかしい思慕に私は眼をつむる。
 自分が現在、土瓶の前に坐っているということで、それを意識しない時間は無に等しいのだ。私の歌の調(しらべ)は、そんなもどかしさの中からほそぼそと生まれてくるような気がしてならない。

 本棚を前にした立原道造の文章(散文詩だったか)が思い出された。物を、無生物を前にした、「もどかしい思慕」。自分がいなくなっても、あきもせず嘆きもせず、そこにあり続けるであろう「もの」への想い。