昨日は「言語と美術」研究会に参加するため、多摩美へ。展覧会「言語と美術——平出隆と美術家たち」のアーカイヴ化。展覧会を保存することで、展覧会で実現していないものを実現させる、というプロジェクト。
自分は終わったことはすぐに忘れてつぎのことをしたいタイプの、きわめて飽きっぽい移り気な人間なので、その粘り強さと探究心が、すごいなあ……と思った。
今井智己さんの撮影した会場記録動画について、アーカイヴ化について、話を聞いたり、意見を述べ合ったり。マイクがまわってきたら、いやだな、どうしよう、と思っていたが、やっぱり、まわってきた。マイクを通した自分の声が、何だか奇妙でおもしろく感じて、何を話したのか、はっきりと思い出せない。「言語と美術」展をみていたときのように、ふわふわしていた。
展覧会の転身、転生ということ。みなでひとつの困難な、不可能なことのようにも感じられる目的に向かって、思考と言葉をつむいでいくすがたに、心が動かされた。
展覧会もまた、生き延びることができるものなのだろうか。
平出さんがいう書物の「谿」が、気になっていて、もっとその問題にせまりたいと思っている。
危機にある書物が教えるのは普遍性ではありえない。半ば開き、軸を据えて回転もし、両岸をはためかせもする「谿」が、人類の起源の地勢に関わるがゆえに、すべてを出会わせる場の可能性を秘めるのではないか。(「物の秘めたる――言語と形象の谿で」)
帰りの電車の中でも、いろいろ話した。別れ際、遊んでください、といって、平出さんは電車を降りていかれた。「ここ」で、「このこと」を、遊ぶこと。おわりがない、果てしがない遊び。たぶんあたらしい迷宮へ、誘われたのだ。