2025年3月29日土曜日

tweet 2015/3/29


  電車で一時間の旅。車窓からみる春の町は、流れる川のようだった。あそこにふわり、ここにもふわり。桜がうかんでいる。呼んでいるのか、呼び交わしているのか。

「子供の頃から、自分はただ流れ去る一つの生体にすぎないと感じてました。」

 手元の文庫本を読み続けられない。はやく逢いにいかなければ。

2025年3月28日金曜日

tweet 2025/3/28

 
 春は、一度はじまってしまえば止まらない。加速していく。

 家から出られず日々眺めている矩形に、淡い緑と桃色の分量が増えた。裸の欅の簡素な美はこの冬を過ごす力になり、愛着があったが、鶸茶色の薄い衣を纏った今も、素敵だ。

 ひたむきに天をめざすものたちが誘いかけてくる。“Up we go! Up we go!”


2025年3月27日木曜日

tweet 2017/3/27


  ぼんやりメールを書いていて、「チラシ」が「虎師」に変換され、『プー横丁にたった家』を探しに立った。

「トラーってものは、けっしていつまでもかなしんでなんかいないんだ。」と、ウサギは説明しました。「やつらはおそるべき速度で、わすれてしまうんだよ。」

 そこで思いだしたことがある。

2025年3月26日水曜日

tweet 2015/3/27

 
 雲ひとつない春の空。どこからどこまでが空なのだろう。

 おわりのない、すいこまれそうな青の一点に、欠けた半透明のものがふわりと浮かぶ。風がふけば飛ばされそうな儚さで。

 陽射しの下、抱かれた赤ん坊もまぶしそうにしていた。日ごとふくらんでいくものの、いまにもはじけそうな気配に身震いする。

2025年3月8日土曜日

Book⇄Life





 水中書店からの依頼で、「Book⇄Life」というポスターをつくりました。本⇄人生/生活/生命。本からLifeへ、Lifeから本へ。手をうごかしてみたら、かたちができました。ぶきような、じぶんらしいかたちになりました。
 入り口に貼ってあります。何か、あかるい、いきいきしたものを感じてもらえたらいいなあ、と思います。
 本屋さんに来る人だけでなく、通り過ぎる人にも、見てほしいそうです。つくったものが、町にひらかれている、というのか、町の一部になることを、新鮮に感じます。 


追伸 ananas pressの相方aこと都筑さんが山口さんと本の話をするそうです 詳細はこちら

2025年3月4日火曜日

拾い読み日記 318

 
 花がだいぶ散ってものさびしく見える梅の木に、メジロと、ヒヨドリが来た。ヒヨドリのからだは、細い梅の枝にとまるには大きすぎる気もしたが、そんなことはおかまいなしに、白い花々とくちづけを交わし、それから、すーいすーいと低い飛行で去っていった。灰色の世界に、灰色のからだで、自由に線を描くように。

 ひさしぶりによく眠れたので、あたまがすっきりしている。夢の中で聞いた歌がなまなましく記憶に残り、それが何の歌か知りたくて、鼻歌検索までやってみたが、でも、どうしても、わからないのだった。きっと、存在しない歌なのだろう。昨年の終わりに亡くなった華やかな人が、ステージで歌ってくれた。人をはげますような、いかにもポップソング、という感じの曲だった。流した涙も君の宝物になる、というような。

 先日、卓球の試合で、くやしい思いをしたから、そんな夢をみたのだろう。ものすごくサーブが切れている人、攻めも守りも上手い人、淡々と力みなく強い人、決めるべきところできっちり決めてくる人に対して、ほとんど歯が立たなかった。自分は、技術的にも精神的にも、よわすぎる、と思った。
 なかでも、同世代だろうか、卓球に自分を賭けている(ように見える)人の気迫は、すごかった。フルゲーム、10−9でマッチポイントを取ってサーブを出す前の、間合い、眼差し。ころす気か、と思った。彼女にとって、試合とは、決闘の場なのだ。
 
 あそこまで、卓球に、自分を賭けることはできない。体力にも気力にも、かぎりがある。卓球よりは、「本」に、自分を賭けたい。
 
 試合が終わって、季節はずれの陽気のなか、卓球を通じて知り合った人たちと、いっしょに駅までの道を歩いた。のどかな景色がひろがり、隣を歩くOさんの育った町の話を聞いたり、それぞれの方言の話をしたりしていたら、しだいに、気持ちもほどけていった。
 知り合って間もなくて、年もかなり離れているのに、こんなふうにしぜんに話ができるのは、練習のときに向かいあっているからかもしれない。卓球場以外で会うことはないけれど、どういう人なのかということは、なんとなく、わかる。
 
 駅に着いてみんなと別れ、そういえば、と本屋さんに向かった。数年前に、かまくらブックフェスタのフェアでお世話になったお店。はじめて訪ねたけれど、とてもいい本屋さんだった。
 棚をゆっくり見ていたら、あたたかな、なぐさめと、希望のようなものを感じた。並べられた本が、砦のようにも見えた。ある意志をもって並べられた本たちは、人に、たしかな、力を与えることができる。言葉のいらない世界から、言葉の世界へ帰ってきて、そう思った。

 一冊、探していた本を買ってリュックにしまい、乗り換えの駅でビールをのみ、くたくたのからだをひきずるようにして、家路に着いた。

2025年2月16日日曜日

ぜるぶの丘で

 
 昼寝から覚めて、放心したまま珈琲豆を挽いていて、ふと顔をあげたら、目のまえに「Green & Fresh」という言葉があった。オリーブオイルの瓶のラベルの文字だった。赤いリボンを模したグラフィックに、白抜きの、太めのセリフ体で刷ってある。いつもそこにあるのに、なぜ今日だけ目にとまったのかわからないけれど、しばらく、しげしげとその文字を眺めていた。じぶんは、いろいろな文字、いろいろなフォントに囲まれて、暮らしているのだな、と思った。

 だれにでも好まれることつらつらと行間の空くメイリオで書く 

 天野陽子歌集『ぜるぶの丘で』より。さっき、この歌を読んだから、きっと、そんなことを思ったのだ。そういえば、ずうっと前、対談の文字起こしに疲れたら、ぜんぶ丸ゴシック体に変えて作業する、といっていたあの男の子は、元気だろうか。あまりにも疲れた人には、明朝体の文字は、痛いのかもしれない。細いゴシックは冷たくて、太いゴシックは強すぎる。
 
 水濡れたページのように横たわる他人の話を聞きすぎた日は

 人や、本や、物との距離のとりかたが、いいなあ、と思った。べたべたしない。つきはなしもしない。ときには、人が物に、物が人に、なりかわったりもして。
 たとえば、こんな歌。

 いくつものわたしが四角くまとまって一足先に旅立った朝
 
 遠方への転居で、荷物を送ったときのことを、よんだものだろうか。これまで、10回、転居してきたが、いちばんはじめの、いちばんおおきな引っ越しの作業のことは、あまり記憶がない。あのとき、18歳のわたしは、何を捨て、何を持っていったのだろう。
 箱に詰められた、「いくつものわたし」。それらと、つかのま離れる、さみしさと、さわやかさ。

 歌に余白があると、そこに自分の記憶を重ねることができる。言葉にしなかった、たくさんのことごとを、思い出す。言葉にはならなかったけれど、ないわけではなかった、たしかにあった。自分の過去の時間は、思ったより、まずしいものではなかったみたいだ。

 四分休符くらいの深呼吸をする雪だけがあるぜるぶの丘で 

 雪の白まで深くすいこんだから、とても、清々しいきもちになる。深い呼吸で、からだの中から風が生まれて、言葉は、その、風にのって運ばれていく。

 

(天野陽子歌集『ぜるぶの丘で』(角川書店・2月25日刊)を装幀しました)