2020年6月9日火曜日

拾い読み日記 189


 暑い日。今日は電車に乗っていつもより遠くにいく予定なのだけど、体力はもつのかどうか、不安だ。

 昨夜、アントニオ・タブッキ『インド夜想曲』(須賀敦子訳、白水社)を読み終えた。ちかごろあたまがぼんやりして、ぜんぜん本が読めない、と思っていたが、するするとページをめくらされ、最後のページまで連れてこられた。夜、ひとりの部屋で、夜の闇が物語のなかにまで侵入してきて、読み終えても暗い靄がかかったままで、やっぱりあたまはぼんやりしていた。

 夜中の待合室で、弟に背負われた小さな占い師が主人公に告げる。
 「あなたはここにいない」。あなたはもうひとりの人。

 まるで自分にいわれたみたいだ。でも、どうしてだろう。

2020年6月2日火曜日

拾い読み日記 188


 あたまのなかで何かが鳴り響いているのか、今はどんな音楽をかけても、うるさく感じる。
 アントニオ・タブッキ『レクイエム』を読み終えた。長い時間をかけて読んだ小説だから、読み終えるころには、淋しくて、ひきかえしたいような気持ちになった。「みんな、さよなら。そして、おやすみ。」もっとずっと読んでいたかったのに。
 読み終える、といったって、じつは、終えてなどいなくて、本を閉じたあとも、読書は続いていく。きっと、7月の暑い夜、どこかの街角で、なつかしい人影を見かけたり、耳元でささやく声を聞いたり、よぎる言葉に気をとられたり、するだろう。またどこからでも読めばいい。

 このレクイエムは、ひとつの「ソナタ」であり、一夜にむすんだ夢でもある。わが主人公は、同じひとつの世界のなかで、生者に会い、死者に会う。そこに出てくるひとびと、事物、場所は、たぶんひとつの祈りを必要としていたのだろう。そして、わが主人公には、物語という彼なりのやり方でしか、その祈りを唱える手だてがなかった。(「はじめに」)

2020年5月29日金曜日

拾い読み日記 187


 pha『どこでもいいからどこかへ行きたい』(幻冬舎文庫)をねころがって読んでいて、すごくサウナにいきたくなり、ためしに家で温冷浴をやってみた。そのあと疲れて横たわり、起きてみたら、あたまがおかしな感じになっていた。
 パソコンの画面上の数字が2桁か3桁かすぐに判別できなくて、変だと気がついた。見ているものが何なのか、すぐにわからない。立っていても、ここにいないような気がする。何もかもに焦点が合わないような、うわすべりしているような状態だった。
 咄嗟に、脳か心の病かと思い、いろいろと検索してみる。「脳梗塞」? 早口言葉もいえるし、歩けるから、ちがうみたい。「離人症」? だいぶ近いようだった。あとから考えると、検索できるくらいなのだから、わりとだいじょうぶだったのだと思うが、そのときはパニック気味で、すぐに夫に連絡して、病院にいったほうがいいのかもしれない、とも思った。
 結局、文字も読めるし、歩けるし、たいしたことはないだろう、と気を落ち着けて、しばらく横になっていたら、元にもどった。
 あれが「サウナトランス」の状態だろうか? まさか。まったく気持ちよくはなくて、ただ居心地がわるく、不安なだけだった。いつもの自分ではない状態が、悪夢そっくりで、おそろしかった。

 小林康夫『若い人のための10冊の本』(ちくまプリマー新書)を読み終えた。passionateな本だった。「読書」のほうへ、「本」の世界へ、またあたらしく、扉が開かれたような、爽快な読後感。
 さて、今日は何を読もう。

2020年5月26日火曜日

拾い読み日記 186


 昨日の夕暮れどき、空に浮かぶ二日月を見た。すぐに消える小さな切り傷みたいに、儚くて細い月だった。テラスにいる他の人たちは、誰も気づいていなかった。もっとよく見たくて、じいっと目を凝らしているとき、月がほんとうは円いことも、隠れている部分のことも、忘れている。

 『空を見てよかった』。心をみだすすべてのことをいったんどこかへしまいこんで、内藤礼の本を手にしてみると、ここでは断章のひとつひとつが空間にしつらえられた作品であり、「もの」であるようなので、いつものように、息をひそめてこころをしずめて、ものの気配をみださないように、そこにいて、みつめたり、ちかづいたり、はなれたり、したいようにしていれば、あるとき、羽のようにかろやかにおりてくるものがある。それからさらに、何かがもたらされ、空間か自分が変質するような、そうした予感やおそれは、余白の白が目にはいるたびに、たかまり、そのしずかなひみつのたかまりを、手のなかにある白い四角いかたちと指がふれる紙のやわらかさが、うけとめる。目が手でからだと、あるきまわり、いつのまにか、どこかにいる。

2020年5月24日日曜日

拾い読み日記 185


 小説を読み終えて、目を閉じた。言葉でいっぱいになったあたまを、しばし休ませたい、と思った。ねかせておいたらいい感じにおちつく生地みたいに、休んで起きたら、何かこのいりみだれるものが、すこしでも整理され、かたちになるのではないかと思われた。いつのまにか寝入っていて、時計を見たら、2時間経っていた。

 そもそもこの日浅という男は、それがどういう種類のものごとであれ、何か大きなものの崩壊に脆く感動しやすくできていた。

 はじめのほうのこの文章によって、沼田真佑『影裏』にぐんとひきこまれたのは、たぶんまちがいなくて、それは、自分も大きなものの崩壊に弱いせいだと思う。ときにははしたないと自分でも思うくらいに、こころをうばわれる。
 脆さ、崩れ、破片、歪み、秘密、語り/騙り……この小説に惹かれた要素は、いろいろある。何より、文章の密度とうねりが、肌に合った。
 これまでずっと沈黙していた人が急に語り出したときに感じる昂揚とかすかな緊張を、読みながら感じていた。

2020年5月23日土曜日

拾い読み日記 184


 早朝、寝床でうぐいすの声を聞く。ほーうと、口笛みたいなこもった音のあと、ケキョ、と奇妙にくっきりした、よく響く声で鳴く。あたりがあかるくなるような声。
 このままずっと、灰色の日がつづくのかと思っていた。うぐいすが光をつれてきたようだ。

 5月ももうすぐ終わる。長い5月だった。本を読みたいと思っていたのに、制作をしていたせいで、あまり読めなかった。
 入稿前は、細かいところばかりが気になって疲れ果ててしまい、最後は、もういい、どうなってもいい、となかば投げやりに入稿した。入稿は、疲れる。

 「神の遠さは生の親密さである、彼はそう言っていた」。去年の手帳に書いてあるのを、先日見つけた。いくつもの疑問がわく。誰の言葉なのだろう。彼とは誰だろう。神に遠く生に近い状態と、神に近く生に遠い状態では、どちらが幸福なのだろう。

 去年の手帳は真っ黒で、なぜあんなに予定があったのか、とても不思議だ。去年のことだけれど、ずいぶん遠いことのように感じる。無理をしていたのだな、と今は思う。

2020年5月18日月曜日

拾い読み日記 183 


 『野中モモの「ZINE」 小さなわたしのメディアを作る』(晶文社)に触発され、もっと思いつきや勢いや偶然の力で何かつくってみたくなり、昨日からとりかかったのだが、なかなか、手こずっている。でも、おもしろい。思いついたことを、かたちにしてみたい。思いついたことは、たいてい、そのままのかたちにならない。だから、つくってみたくなる。

 穴の中、穴の奥、完璧に近い孤独の中にいて、書くことだけが救いになるだろうと気づくこと。(マルグリット・デュラス『エクリール』河出書房新社)

 あたらしい冊子づくりのために、かつて読んだ/書いた文章を読み返していると、読むこと/書くことに、どうしてここまでとらわれているのだろう、と思う。
 おそらく、書けないからなのだ。

 夜、駅前のカフェへ。マスクをしたまま活発な打ち合わせをしている人を見かけて、笑いながら怒る人を見たような気持ちになる。

 今は穴の中にいて、その穴は、マスクによって塞がれている。