2019年6月29日土曜日
拾い読み日記 138
とある事情で、知らない人が引っ越して出ていった部屋に入ることに。いらないものは置きっぱなし、壁もドアもボロボロ。昨日まで住んでいたはずなのに、もう長いあいだ忘れ去られていた廃屋みたいだった。あまりに汚くて、気持ちが弱った。
暮らすこととか、家という場所、部屋という空間についてかんがえさせられる。このマンションにいられるのは9月末まで。いくら取り壊しになるからといって、引っ越すときは、すこしでもいいので掃除して、気持ちよく、出ていきたい。
ほんとうは、もっと住みたかったが、しようがない。もろもろの条件に納得もしている。飽きっぽいので、またあたらしい場所で生活をはじめられることは、いいのかもしれない、とも思う。片付けもできるし、気持ちがさっぱりする。
今日やるべきしごとは終えたので、夜は、すきなように本を読もう。
すぐれた日記を残したスイスの哲学者アミエルは言っております。「われわれは忙しすぎ、煩わされすぎ、働きすぎる。あまりにも活動的でありすぎる。あまりにも本を読みすぎる。仕事にきりをつける方法を知ることのほうが大切だ。しかしそれは怠けるということと同じ意味ではない。注意深い無為の状態にあって、魂の皺はなめらかにされ、魂自身はのび、ひろがり、新しく湧きあがり、道ばたの踏まれた草、またはいためられた木の葉のように、その傷をいやし、新しい、自然な、真実な、そして独創的なものとなってよみがえる。」書物へのまことの愛がもたらすものは、これであろうと私は信じております。(寿岳文章『書物とともに』布川角左衛門編、冨山房百科文庫)
今日、いいこともあった。朝、先に起きていた夫が、ホットケーキが焼けるよ、といって起こしてくれたこと。そんな起こされ方は、はじめて。今朝の自分たちは、どこか、プーとコブタに似ていた気がする。
Sufjan Stevens「Love yourself」を聞きながら。