テープレコーダーはなぜ現場を再現しうるか。この問いは、人間にとって現場とはつねに虚構であることを教える。人間にできることは、自己を包んで生起している現象のきわめて限られた一面を見ることにすぎない。限られた一面は、限られるというそのことにおいてすでになかば虚構である。(『現代思想 総特集バシュラール』1980年4月臨時増刊号 編集後記)
昨日水中書店で買った本。編集後記の署名はM。編集人の三浦雅士だろう。
なぜ日記を書くのか。書いているのか。日記をまったく書けなくて、本も読めなかったとき、自分の日記を、ちょっと、読んでみた。本は読めなくても、言葉は読みたかったから。
自分の日記は、他人の日記みたいで、意外とおもしろかった。書いているときも、わりとおもしろい。それは、虚構ということに関わるのではないか、と思った。
Macのキーボードとディスプレイ、ブログというメディアは、自分にとって、テープレコーダーなのかもしれない。ずっとむかし、カセットテープに録音した自分の声が不思議で無気味でおもしろくて、くりかえし巻き戻して聞いたことを思いだした。
Macのキーボードとディスプレイ、ブログというメディアは、自分にとって、テープレコーダーなのかもしれない。ずっとむかし、カセットテープに録音した自分の声が不思議で無気味でおもしろくて、くりかえし巻き戻して聞いたことを思いだした。
今朝の夢は、ワゴン車で輸送されていく自分(たち)を、空の上から眺める夢だった。ここにわたしがいるのに、あそこにもわたしがいることが、おかしい、と思った。どうしてですか? と、そばにいる人にたずねた。その返答は、思い出せない。
青木淳『フラジャイル・コンセプト』を昨日から読んでいる。つくったものをどう展示すればいいのか、つくることにかまけて、あまりかんがえないで来てしまったな、とひしひしと感じる。「モノやコトを通してある特定の意味内容やメッセージを伝えるのではなく、モノやコトがもたらす感覚の質を純粋なかたちで見る人のなかに実現する」。