ぼやっとした雰囲気であいまいな話し方をするせいか、ときどき誤解されるけれど、べつに自分は、気持ちのやさしい、おだやかな人間ではない。なにをいわれても怒らない人間でも、もちろんない。理不尽なことをいきなりいわれたら、かっとなって言い返す。感情的なメールにも、(できるだけ冷静に返したいとは思うが)こちらのいいたいことはいう。尊厳を傷つけられてまで、やりたい仕事も、つづけたい関係も、ない。だれになにをいわれても、あまり気にしない。自分をいちばんよく知っているひとが、自分を信頼して、人間としてすきでいてくれるなら、それだけでいい。そういうひとがいないときでも、すきな友だちや、すきな本があればいい。
人間が人間らしく生きるために
尊厳を持って生きるために
人権はなくてはならない。
なのにどうしてか
「人権」や「尊厳」という言葉に
抵抗感があるとしたら
じつはあなた自身の人権や尊厳が
ずっと傷つけられてきたからじゃないだろうか。
(日本国憲法 97条「人間らしく生きるために/永久の権利として手渡されたもの」詩訳・白井明大)
みんなで声に出して読むことができて、さいわいだった。なかったことにしていた出来事を、思い出した。自分の傷をどうでもいいことにしてしまったら、ひとの傷に対しても、そうなってしまいそうで、それはとても、おそろしいことだと思う。
昨日みた「3ミリの恋」を思い返しても、そう思う。どうして、歴史を学ぶ必要があるのか、ということ。過去を知り、尊厳を傷つけられてきたひとびとのことを、知る必要があるのか。
みずみずしい、さわやかな恋愛映画のなかに、祈りと希望がこめられていた。釜山から唐津へ帰る、遠ざかっていく船から、男の子が女の子に、全身で気持ちを伝えるシーンでは、泣けてしまって、そのことをばったり会ったHさん(映画をすすめてくれた方)に話したら、ピュアですね〜といわれた。
そうか、ピュアか……と思いつつ、近ごろのあれこれをかんがえてみるに、おそらく、自分は、接する対象によって、性質を変えられてしまいやすいという性質を持つ。であるなら、自分の良質な部分をひきだしてくれる相手とつきあっていくのが、よいのだろうと思う。あかるい方、すこやかな方へみちびいてくれるひとは、たしかに存在する。
