2021年10月30日土曜日

拾い読み日記 264

 
 ろくに本が読めない日々が続いている。今日は作業の合間に、一篇の詩を読んだ。マーク・ストランド『ほとんど見えない』より、「風に運ばれる一枚の葉のように」。

仕事を離れた後、場所も知られず、用事が自分にも謎である場所で、微かに灯りのある通りと、暗い路地を歩き、荒廃したアパートの後方の町外れにある、自分の部屋に向かう。季節は冬で、彼はコートの襟を立て、背を丸めて歩く。部屋に着くと小さなテーブルにつき、自分の前に広げられた本を見る。本の中は空白。だから彼は数時間もそれを見つめることができる。
 
 この詩、すごくいいな、好きだな、と思った。寒さ、虚しさ、暗さ、狂おしさ。紙の白さ。

 暗くなってから、スーパーへ買い物にいく。だれかの部屋から「YAH YAH YAH」が聞こえてきた。今から一緒にこれから一緒に殴りにいこうか。って、へんな歌詞、でもきらいではない。足を止めてすこし聞いた。
 もうすぐ立冬なのに、金木犀が匂っている。3回も咲くなんて、今年の秋は、どこかおかしい。
 
 明日は投票日。
 

2021年10月27日水曜日

拾い読み日記 263

 
 今日の仕事を終えて、相当つかれたのに、まだ、パソコンの前から離れられない。なぜだろうか。

 ふいに、「デザインに悲しみは盛れないか」という、山城隆一の言葉を思いだした。すこし酔ったあたまで、どこかにもどりたい、と思う。どこかにさかのぼりたい、どこかはわからないけれど。
 「いま」の幸福を感じることとはまったく無関係に、「むかし」を、甘く、やさしく感じる。

 あのあと、川でのんだんだって、などと、笑いながらうわさばなしをしていたのに、自分も、川にいって、のんでしまった。存外、たのしかった。川は大きくて、ちからづよくて、まぶしかった。「川一条は人界と幻界との隔てなり」。ぼんやりものを書いていると、たやすく、ひとのことばにのっとられる。

 川から日暮里に移動して、夜通し、本や、恋の話をした。おかあさんみたいにやさしい感じの男の人が、おさしみや、まぐろのカマを出してくれた。
 語りつづけるものとよいつぶれるものが、同じ空間にいて、なんだか、サークルの部室で一晩すごしたみたいだった。サークル名は、書物論研究会、だろう。
 いつまでもこんなふうに、「本」のことばかり、かんがえたり、かたりあったりできれば、しあわせだなあ、と思う。

2021年10月20日水曜日

図書館フェス2021


 東久留米市立図書館で開催されている図書館フェス2021に、ヒロイヨミ社も参加しています。「ひとハコ図書館」館長として、本をえらびました。「真夜中のヒロイヨミ図書館」、ぜひ、おとずれてみてください。
 おもしろそうなイベント、いろいろとやるみたいです。「本屋さんのトビラ」には、水中書店も参加しています。

 本をえらんでリストをつくる作業は、机の上でやっているのに、まるで、実際にあちこちに出かけてあつめてきたような感じがしました。あたまもからだも使って、へとへとになって、とてもたのしかった。もっともっと、本が読みたくなりました。読めなくても、触れていられたら。近くにあれば。ときには、想うだけでも、いいような。
 今回の「図書館」に、ボルヘスは入れなかったけれど、ボルヘスのことばが、そばにありました。
 
「一冊の書物はけっして単なる一冊の書物ではないという単純かつ十分な理由から文学は無限である。書物は孤立したものではない。それはひとつの関係、無数の関係の軸である。」(ボルヘス「バーナード・ショーに関する〈に向けての〉ノート」)

 来月には、狩野岳朗さんといっしょにつくっている「本の絵本」ができあがるので、それにあわせて、展示をやる予定です。くわしいことは、またおしらせします。

 追伸 ストーブ出しました

2021年10月9日土曜日

拾い読み日記 262

 
 鳥の声で目がさめた。森の中にいるのか、と思うほど、おおきな音だった。南の窓から、北の部屋へ、音は、よく透った。
 
 まぼろしはそらよりきたる身にうすきいのちのやうな言語をまとひ  永井陽子
  
 こんな状態では本など読めない、と思ったときこそ、本を開くべきだ。開くだけで、言葉は目にはいってくるし、はいってきたら、それは、自らが身のうちに隠し持つ本のなかに書きこまれた、ということではないか。白いページは、言葉が見つけてくれる。
 うわつきがちなこころを定位置にもどすために、「全歌集」の重さは、いい、と思った。何年かけても読み終わらない本。そもそも、読み終えようとすら思わない本。そうした本と、長い時間をすごすために、長く「ここ」にいたいと思う。

2021年10月5日火曜日

10月のおしらせ

 
 9月のはじまりはずいぶん涼しくて、とつぜん秋がやってきた、と思いましたが、10月のはじまりは、暑いです。今日も、半袖で出かけるつもりです。

 いくつか、お知らせがあります。



 まもなく発売される白井明大さんの詩集『着雪する小葉となって』(思潮社)のデザインをしました。
 組版からかんがえられる仕事は多くないので、貴重な機会でした。本をひらいたら、すっと詩のことばにはいっていけたら、いいと思います。
 装画は、大平高之さんです。葉のような、羽のような、舞い降りてきたような、飛び立っていきそうな、ふしぎなかろやかさのある絵です。それから、なにか、やわらかなもの。しずかなつよさのようなもの。詩からうけた印象が、みごとにあらわされていたので、装幀は、あまり、なやみませんでした。
 編集は、思潮社の藤井一乃さん。柏木麻里さんの詩集『蝶』につづいて、お世話になりました。藤原印刷による印刷も、すばらしいです。
 特装版も、美篶堂で製本中です。思潮社版は並製ですが、こちらはフランス装で、スリーブケース付きです。題字を、うちの小さな活版印刷機adana8×5で刷りました。100部限定です。
 どちらも、ぜひ、本屋さんで、手にしてみてもらえたら、さいわいです。

  
 先日、今井友樹監督の『明日をへぐる』というドキュメンタリー映画をみました。
 和紙の原料である楮をつくっているところと、つくっているひとたちに、取材した映画です。紙と人と自然について、感じるものごとが多くて、とても受けとめきれないけれど、でも、いま、みることができてよかった、と思った映画でした。
 たくさんのひとびとのことを知りました。楮を栽培するひと、収穫した楮を蒸して皮を剥がしてそれをさらにきれいにするために「へぐる」ひと、和紙を漉くひと、和紙に木版画を刷るひと、和紙をつかって古文書などを修理するひと、森と樹を守ろうとするひと。そのひとたちの語ることばだけでなく、その声や、その表情や、その手のうごきが忘れがたく、これから和紙にふれるたび、ふいに、思い出しそうです。
 映画をみて何日か経って、パンフレットをよんで、自分のしごとについて、かんがえたりします。本はたくさん出すぎだろう、と思うけれど、その、本のデザインのしごとがなければ、生活はきびしくなりそうだし、ヒロイヨミ社の活動も、むずかしくなるかもしれません。
 できるだけ、自分にあまりウソをつかなくてもよいように、こころをくだいて、手をうごかして、しごとをしていけたら、と思います。ひとだけでなく、本や、紙や、ことばの身になって、デザインしたり、制作したりできたらと。
 監督の今井さんとは、6年ほど前に、ギャラリーみずのそらで知り合いました。鳥の話を、たくさん、うかがいました。


 先月は、都筑晶絵さんの作品『peu belle』の、制作のお手伝い(ケースのデザインなど、すこしですが)もしました。ippo plusでの展示のためにつくられた本です。展示は、残念ながらおわってしまいましたが、本はのこるものだから、なにかの機会に、ぜひみてください。
 紙への想いが、濃やかにチャーミングに表現された、「ちょっとうつくしい」、というよりは、とってもうつくしい作品で、はじめてみたとき、はっとしました。あの感じ。しいんとする、と同時に、飛んでいって、ハイタッチしたくなりました。


 川越市霞ヶ関の本屋さん、つまずく本屋ホォルで、ananas pressとヒロイヨミ社、北と南とヒロイヨミの本の取り扱いがはじまりました。お近くのかた、ぜひ、寄ってみてくださいね。

 
 長くなりましたが、このへんで。どうぞ、すこやかに、よい秋をおすごしください。


 追伸 のみましょう

2021年10月4日月曜日

拾い読み日記 261


 朝はやく目が覚めて、二度寝しようと寝床のなかにいたら、道行く人のひとりごとが聞こえてきた。「朝だ……朝だよ……なんで朝になっちまうんだよ……」。よっぱらいだろうか。なんだか芝居くさい言葉だった。この通りでは、ひとはよく、ひとりごとをいったり、歌ったりする。こどもたちは今日も、怪物でも出たかのように、ワーとかギャーとかさわいで、どたどた走っていた。

 今年二度目の金木犀の匂いがする。柿の実が色づくのもはやい。メジロやムクドリがたべにくる。鳩は柿をたべない。のんびりしているので、鳩の姿を見ると、こころがなごむ。
 
 やらなくてはいけないことがいろいろあって、でも追いつめられているほどではない。わりと、たのしい。たのしい気がする。

 金井景子『真夜中の彼女たち』を、もうすぐ読み終わる。「書く女の近代」という副題なのだが、最初の章は、「みたけれども書かなかった女」正岡律の話からはじまる。この章を読んで強い印象を受けたものの、そのあとを読み進めるのに、10年以上もの月日を要した。
 この本を読み終えたら、樋口一葉、与謝野晶子、林芙美子ら、書いた女たちの言葉を、これまでとちがった切実さで読むことになるのではないか。そう思いながら、読んでいる。
 本を読むのには、時間が必要だ。読む時間はもちろん、読まない時間も、必要だった。