2019年4月30日火曜日

拾い読み日記 115


 昨日はscoolへ「サマースプリング」(ミニスキュル・シングス)をみにいった。
 窒息しそうなほどの緊張感。苦しかった。自分のたてる音でこの場をだいなしにしたらどうしよう、とも思った。隣の男の鼻息がうるさかった。異界からの鳥の声のようなものが、かすかに聞こえた。胸をしめつけられる。聞いたことがないような、ふしぎな響きの、儚くて、無垢で、思い出すほどに痛く切ない、うっとりするような声だった。
 それからあの音。本で壁を殴る音、ブロックを床に打ち付ける音。そこに音楽が重なる。音はきらきらした光の粒みたいで目がくらんだ。感じつくせないことが起きていた。

 閉じこめられるからだ、うなだれるからだ、ひきつるからだ、よじれるからだ。からだは波うち、逆立ち、倒れこむ。倒れたからだがなだれこんできて、それらは亡霊のように、いま、自分の心とからだの中にある。しばらくは、この亡霊といっしょにすごしたい。

Don't you leave me out here too long
Will you bring me out there too?
Red House Painters New Jersey”)
 
 「サマースプリング」は、たぶん、郡淳一郎さんと木村カナさんのアフタートークがなければ、みにいかなかったと思う。みることができてよかった。

 草間彌生の自伝を手にとり、コーネルに首を絞められたくだりを読んだ。膝の上の彼女を、「猫の子を扱うみたいに」首を絞めはじめ、急に立ち上がると、トイレに閉じこもって出てこない。心配になってのぞいてみる。

すると、半裸姿のジョゼフはひざまづいて、「神様、どうか私を許してください」と言って、一心にお詫びのお祈りをしていた。きっと、困り果てて、神様に許しを乞うていたのに違いない。その時、トイレの窓から見えた、ロングアイランドの真っ青な空の色は、いまだに忘れられない。(草間彌生『無限の網』)

 まだ昨日の疲れは残っているけれど、今日は夫と「平成」の打ち上げ。平成という時代に特別な思いはないけれど、酒の肴にはしてもいい。

2019年4月29日月曜日

拾い読み日記 114


 おととい拾った躑躅の小枝を水に挿しておいたら、今日、花が開いた。夜のあいだに開いたのだろう。はっとした朝だった。ふたつの花を支えているかのような葉も、つきかたがよく、綺麗だなと見とれる。

 昨日は、ポスタルコ主催のマーケットへ。村橋貴博さんのちいさなオブジェと灰色の箱と焼き菓子を買った。そのあとひさしぶりに八重洲ブックセンターへ。上のほうの、文学や美術書のフロアが閑散としていて、すこし、心配になる。カフェで30分ほど休む。そういえば、大学4年のとき、ここでOGの方の話を聞いた。むかしのことばかり思い出す近ごろだ。本屋さんの制服を着ている自分は、想像できない。制服も礼服も、できれば、着たくない。

 かばんの中には、今野真二『日本語の考古学』、荻原魚雷『活字と自活』、『私たちの午前三時』が入っていて、どれもちょっとずつ読んだ。

 「失われた部分」への意識をつねに持ち続けること。今目の前にある日本語がすべてだと思わないこと。そうしたことが、言語の長い歴史を復元していくときに必要な態度ではないかと思う。(今野真二『日本語の考古学』)

 読書になかなか集中できない。

2019年4月28日日曜日

拾い読み日記 113


 お昼前、空を見上げたら、雲のきわが虹色に光っていた。彩雲というらしい。はじめてみた。なんとなく、いいことがありそうな気がして、じっとみていた。誰の身にも、いいことがあるといいなと思った。

 昨日、りんてん舎でばったり会ったh.kさんといっしょに水中書店まで歩いて、それぞれじっくり棚をみて、本を買ったあと、誘ってごはんをたべにいった。古本屋の話、詩人の話、本の話、デザインの話、家族の話、男女の話など、とりとめもなく話をして、はっと気づくと、12時前になっていた。駅の近くで巻きタバコを吸うその人に別れをつげて、歩いて帰った。寒くて、冬みたい、と感じた。
 その人と会話しながら、このところ、夫がいそがしくて、人とじっくり話していなかったことに気がついた。突然、この日記がひとりよがりで感情的で矛盾だらけのはずかしいものに思えてきたのだが、それでも消す気にはなれない。だから、さらに書き続けて、昨日までのことを埋もれさせたい。

 文庫版『本が崩れる』(草森紳一)で「魔的なる奥野先生」という追悼文を読んだ。

 亡くなられる一ケ月位前、奥野先生にお逢いした日のことを想いだす。「これまで書いたものは随筆集ばかりだった。僕の生きかたは随筆のようなものだったから、これでいいんだ」となにかの調子にしんみりおっしゃったのだ。

 草森さんは、学問的な著作をまったく残さなかった師のことを、このように書く。

ただ先生は、やらなくてはという脅迫にいつもおびえていたから、無類の勉強家だったと思う。そしておびえながらついに先生はなにもしなかったのだ。逆説にきこえるかもしれないが、それはすばらしいことだったとも思う。

 この部分を書き写すだけで、ふしぎと胸がいっぱいになる。
 水中書店で奥野信太郎の本をなんとなく探したけれど見つからず、聞いてみたら、棚の一番下にひっそりあった。『おもちゃの風景』という、箱入りで、小さめの、美しく愛らしい本だ。

2019年4月27日土曜日

拾い読み日記 112


 午前中は晴れ。町中をいろいろなカップルや家族がゆっくり歩いていて、のんびりして、お祭りみたいな感じがした。今日から連休。活字と紙の手配が済んだので、ほっとしている。午後からまた雨。吉祥寺に出かけようと思っていたが、疲れているので、やめにする。
 頭の中の言葉が多すぎて、本も読めない。日記なら書ける。頭の中の言葉を外に出すことには夢中になる。「「夢中」というのは、たいした「痛み止め」なんだなと思う。」(草森紳一)

 ポリティカル・コレクトネスについて、今まであまり考えてこなかった。今回のことでは、政治的正しさの名のもとにおこなわれる暴力をみた気がした。
 けれど今は、彼女のことが気になっている。これまで、いろいろとひどいことを、年長の男性たちに、言われたのだろうと思う。そういう女性たちを、見てきたのだろうとも思う。それらの言葉が、傷になっていたのかもしれない。

 会社には5年しかいなかったけれど、ハラスメントも差別も、なかった(気がつかなかった)と思う。むしろ、同時期に入社した男性のほうに、上司の当たりが強かった気がした。彼の方が、自分よりずっと真面目で、勤勉で、意欲もあったと思う。まっすぐすぎて、見ていて、ときどき不安になった。その人は、ある日突然、会社に来なくなった。
 半年ほどたって、ある夜、電話してみたら、つながった。元気そうだったので、安心した。「ヤマモトさん、ふつうの会社はいいよ」と言っていたのをおぼえている。今思い出しても、彼に対しては、うしろめたい思いがある。自分だってそうとうへまをしていたのに。彼は今も、「ふつうの会社」で働いているのだろうか。

 おそらく、私には書物を読みかつ所有することに対する、劣等感が根深くあるにちがいない。本を読まない人間にたいして、すなわち本を読まないでも生きていられる人間に対して、はかり知れぬひけめをいつも感じる。(草森紳一「本棚は羞恥する」)

 自分は、本を読まない人にも、たくさん読む人にも、ひけめを感じる。本のまわりでうろうろしているだけで、年を重ねてきた。

 二日前、「Kさんとわたし」というテーマで、人前で話す夢をみた。裁判所の前で思い切って話しかけたことから語り起こして、最後、無事でいてくれたらうれしいです、と言い終えて、目が覚めた。朝、その話をすると、とても読解しやすい夢だね、と夫が笑った。

2019年4月26日金曜日

拾い読み日記 111


 なんだか、寒い日。連休前、ひとしきり入稿データを送って、ほっとした。

 いろいろなことがうまく言葉にできない。もやもやした思いばかりがたまっていく。Kさんの「炎上」について。
 「閉鎖的で性差別的な発言」と感じた言葉を、スクリーンショットを貼って拡散する、その行為が、おそろしいと思った。そのあとの「過剰に責められることを望んでいません」という言葉もふくめて。人を「炎上」させることの容易さ。そういう人が、人文書を編集している、ということに、何か、やりきれないものを感じる。彼女は、性差別でなく、別の侮蔑を感じなかったのか。怒るなら、そこではないのか。
 ただ、ふたりの間に、対話は成り立たないだろうとも思う。書物観の、次元がちがいすぎる。

 twitterはおそろしい。言葉に対する感覚が麻痺して、本への畏れも失ってしまいそうになる。それでも、読むのをやめることができない。それはひとつの病なのだろうが、その根は深すぎてよくわからない。

 あふれて受けとめきれないくらいの言葉にさらされているときに、本をどのように受け取り、読んだらいいのか、という問題は、もっと時間をかけて、考えていきたい。あたまを冷やして、しずかな場所で、言葉に向かいあいたい。本とは何だろうかと考えながら、本の読めなさに絶望しながら、本を読んでいきたい。

 昨日みた3つの展示(安岡友美子、村橋貴博、狩野岳朗)、どれも、とてもよかった。3つの場所に足を運ぶと、作品と空間の関係について考えざるを得ない。展示をみにいくことは、その空間に身を置いて、自分がどう感じるかを知ることでもある。自分のこころとからだが、どう反応するのか、ということ。

 安岡友美子さんの展示[tint]で読んだ言葉。

何処かに転がっているかもしれない小さな空き缶を想像してみる。
そうやって私は、視えない何億もの世界中の空き缶に気づく。
毛羽立った地平に光が降り積もって、柔らかい層を成している。いつもより30分早い、今日の朝だ。

 窓から午後のやわらかな光がさしこんで、白い空間の白が強まり、からだの中から浄化されていくようだった。

2019年4月18日木曜日

拾い読み日記 110


 よい天気の日。大阪から帰ってきて腰痛がひどくて、つらかった。異常にこころぼそくなり、いつもそばにいてうすよごれてきたぬいぐるみ(パペット)のにっこりした顔を見ているだけで、かわいそうになり泣けてくるほどだった。もしかしたら、どうかしているのかもしれない。

 大阪での「エア メイル」展をみた方が『葉書でドナルド・エヴァンズに』が好きな人におすすめしたい、と書いてくださっていてうれしかった。夫にそのことをいうと、平出チルドレンだものね、とのことだった。平出チルドレン……。なのかどうかはともかく、書物論講座を受講したことは、最近の制作に強く影響していると思う。ヒロイヨミ社もananas pressも、新宿私塾に行かなかったらはじまらなかったことをかんがえると、独学でなく、どこかに通って学ぶことは、とても大切で、必要なことだった。

 「すべての書物がスキャンされようとしている時代、それはプライヴェート・プレスにとっては挑みがいのある時代である」(平出隆)。つくりたいのは、空間なのだろうと思う。書物という空間。
 とはいえ、書物という言葉がふさわしいとも思えない、うすい冊子ばかりつくっている。今度の本も、薄くて、たよりない。どこかから流れ着いてきたようなものになったらいい。
 これからも、ちゃんとした、背のある本は、つくれないし、つくりたくならないような気もしている。先のことは、わからないけれど。
 
 『ヒロインズ』、少しずつ読みすすめている。

こういう貴重本の閲覧室に入ると、いつも寒々しい家父長的な空気のようなものを肌身に感じる。私の体温が永久保存の資料を傷めてしまうのではないかと、見張られているような気がして。(ケイト・ザンブレノ『ヒロインズ』西山敦子訳)

2019年4月15日月曜日

拾い読み日記 109


 神はこの広い世界のただ中に
 わたしを一人で立たせたのだ
 「おまえは女ではなく鳥なのだ
 だから飛べ——­­そして唄え」と

 7年前、ひとりの春に、スケッチブックに書き写したマリーナ・ツヴェターエワの詩。『pieria』(東京外国語大学出版会)で見つけた。前田和泉訳。

 まだ疲れが残っている。大阪に持っていった本はぜんぜん読めなかった。次に何を作ったらいいのか、まだ見えてこない。これからどこに向かえばいいのか。ときどき、制作を趣味のように思わることもあり、むなしさと無力感を感じる。それは、作るものの弱さのせいだろうか? 

 新しい『pieria』が届いた。小野寺拓也「過去の人々の手紙を読むということ」を読んだ。友人の祖母の手紙をずっと読んでいたので、目にとまった。彼女のこと、だけでなく、彼女たちのこと、彼女たちが生きた時代のことを、近くに感じることが、たいせつなのだと思った。「一見普遍的に見えるけれども、その時代固有の文脈のせいで起きていること」について、知ること、考えること。

 『ぽかん  07』に載っていた郷田貴子さんの「おばあちゃんからの便りと、最期の絵日記」、大阪行きの新幹線で読んでいて、心にしみた。
 
 入院した祖母に会いに行ったのも7年前のことで、そのとき、顔に見覚えはあるが誰だったか、といわれ、祖母が帳面として使っていた「大人の塗り絵」に「伸子(孫)」と書き残して別れた。それから3年後の葬式には、インフルエンザで、出られなかった。ほんとうはサンフランシスコのブックフェアに参加するはずだった、2月はじめ。

 何ができるだろうか? と途方にくれても、何もできないとは思わない。小さなことを小さなままやり続けてもいい。大きなことは権力につながりやすい。
 知識と知恵と力がほしい。感じ、考え、作り続ける力が。

2019年4月10日水曜日

拾い読み日記 108


 昨日いっしょにのんだ3人、全員が「文キャン」(早稲田の文学部キャンパス)出身ということで、その二人に、自分の大学時代の、あるおもいでを話した。
 Fくんというサークルで一学下だった、痩せていて、無口で、ふしぎな雰囲気を持つ男子とキャンパスでばったり会って、本の話になった。彼は、ひとりごとみたいな口調で、沼正三の『家畜人ヤプー』の話をしていて、そのあたりのことは何も知らなかった自分は、静かに、圧倒されていた。
 自分は、大学二年になっても、文学のことも、詩のことも、映画のことも、ほとんど知らなかった。そういう話をする友人が、まわりにまったくいなかった。
 あのとき、なぜだか彼に、「東京」を感じた。彼は、すぐにサークルからいなくなったけれど、ときどき、ふとしたことで、その記憶はよみがえった。あの、こわいような、逃げ出したいような、なんともいえない気持ちで歩いた文学部のキャンパスが、なつかしい。あの気持ちは、もしかしたら、あこがれのようなものだったかもしれない、と、いま気づいた。
 その彼が、昨日twitterで「本物のSM女王様に縛られる可能性の高いエキストラ」を募集していた。それがまわってきた。映画の仕事は、順調なようだった。思えば、あのキャンパスでの会話から、28年が経っている。

 twitterは、キャンパスでばったり会うみたいに、人にばったり会う。自分もまた、いつかどこかで会った誰かに、見かけられたりしているだろうか?

 ほぼ毎日日記を書くのは過剰だろうと思うのだが、そのことは、恐れなくてもいいとも思う。『ヒロインズ』は次の冊子を作り始める前に読んでおきたいと思い、4分の1ほど読んだ。
 
 彼は職場の図書館に行く。本を読む。本に囲まれて生活する。古いページのなかに書かれた言葉、言葉、言葉のなかで生きている。私は書くことで壊れていく。
 
 わたしは、「彼」であり、「私」でもあるように感じて、感情が大きく揺さぶられ、あまり思い出したくないことまで思い出すのだが、ページをめくらずにはいられない。
 

 展示の準備と仕事で、くたくただ。Adrianne Lenkerをくりかえしきいている。春なのに、寒すぎる一日だった。
 

2019年4月8日月曜日

拾い読み日記 107


 寒い日。朝から製本作業。午後、3時半から5時前まで寝た。もう、昼寝しないと一日を乗り切れない身体になってしまったようだ。なってしまった、なんてつい書いたけれど、べつに、残念には思っていない。眠るのはいい。あたまもすっきりする。

 今週末からの展示と、来月下旬の展示と、準備することとかんがえることとがたくさんあって、本が読めない。最初から読もうという気力が起きない。いくつかの本をぱらぱらとめくる。自分の手の動きの中で本は断片化していく。拾い読みはきっと破壊の衝動にもつながっている。自分で壊したものを自分ですくいあげてじっと見つめる。

 なかなか手にとれなかった『ヒロインズ』(ケイト・ザンブレノ)を、ようやく、開いてみた。

 私は洞穴の入り口に座って、バラバラの破片を紙の上に綴じ合わせる。紙切れは風に吹かれて飛ばされそうだ、誰にも読まれることなく。
 この物語から、チョークで書かれた輪郭が浮かび上がる。それは、ひとりの女の形をしている。

 「これらの断片を支えにして、私は自分の崩壊に抵抗してきた」


2019年4月7日日曜日

拾い読み日記 106


 夕方、製本しながら、ふいに、もっと詩歌を読まなければ、と思った。もっとさかのぼって、もっと深く、もっと心を入れて。自分には、言葉のしごとをしていくうえで、根や、芯のようなものが、欠けているのではないかと思う。これではすぐに折れてしまう。


 今日、花をゆっくりみることはできなかったが、友人の元気な様子、しあわせそうな様子をみた。


 三井葉子随筆集『つづれ刺せ』を手にとり、すきなところを読み返した。

 心平さんの詩を読むと、いっそうひとの計らいがさやさやとたてがみのように、すぎてゆくときにふかれて鳴っているのを、わたしは獅子の野中に立つようにしておう。わたしは死ぬのもおそろしいけれども、いずれ、いつかそうおっしゃったように、さようならと言って、気球かなんかのようなものに乗って、ちょうどその時地球は花なんか咲いていたりしてきれいなんだな、とそう言っていらっしゃったからそうおもって、天地の境めを失っている。(三井葉子「心平さんのこと」)

2019年4月6日土曜日

拾い読み日記 105


 しごとの合間に缶ビールを持って、近所の公園へ。日をあびた桜と澄んだ空の色をみていると、とても、幸福を感じた。咲く花も散る花も、きらきらして、この世のものとも思えないほどうつくしいので、すこしだけ、涙が出た。花見は、大勢でなくて、ひとりか、ふたりがいい。しずかな気持ちで桜に対していると、何か、特別な力をあたえられる気がする。

 物言はぬ人こそよけれ櫻の夜  正木浩一

 髪をどうにかしようと美容院へ。はじめての美容院、はじめての美容師さん。30代くらいの女性で、口癖なのか、「逆に」とよく口にするのが気になった。「逆に髪が長いときがあったんですか」と聞かれ、「ええ、逆に長いときもありました」と、つい言ってしまった。仕事のこともたずねられ、「デザイン」というと、素敵ですね、とかいわれることがあり、それがすごくいやなので、家でデスクワークで、パソコンを使ったりします、とこたえた。

 これからまだ作業をしよう。昼間、また少し寝たので、まだ、眠くない。昼寝は、もう、日課として遂行する、ぐらいの考えかたでいいのではないか。眠くてしょうがないときは眠るしかない。

2019年4月4日木曜日

拾い読み日記 104


 来週に迫った「エア メイル」展の準備。レイコさんのエアメールを読んでいた。腰が痛い、とか、目が悪くなった、とか、何度も書かれている。そういうところに共感する。
 80年代の手紙にはちいさなaも登場した。とてもおとなしくていい子でびっくりした、と書かれていて、思わず、笑ってしまった……。

 ようやくあたたかくなったので、お花見へ。おべんとうと缶ビールを持って桜並木をずんずん歩いた。あまりいい場所が見つけられなかったが、公園の松の木のそばのベンチに座り、ひとやすみ。楓の葉の若いみどりが綺麗だった。

 帰ってきて珈琲をのんでいたらもうれつに眠くなり、布団を敷いて、寝た。起きたら暗くなっていた。なんだかちょっと、さみしい感じもした。
 このひどい眠気は、季節のせいというより、年のせいかもしれない。「更年期 眠気」で検索してみて、いくつかの記事を読んだ。

 さくらいろの鯛が波にのって並んでくるのは
 別れをさびしがっていた家や人や波が ももいろのなかから帰ってくるときであれば
 肉を踏みならしてくるおとこにも
 いろと香りはついていて
 そのたびの はらはらとあかく膿んでゆく船の宿

 (三井葉子「さくら」)

 5月の展示のタイトルは「ephemeral」に決まった。咲きながら散りゆく桜にも、この言葉はふさわしい。ひとひらひとひら、白いかけらはやがて町にとけてゆく。

2019年4月3日水曜日

拾い読み日記 103


 朝、製本しながらカエターノ・ヴェローゾの「ククルクク・パロマ」を何度か聴いた。映画をみにいきたい、と思った。映像の記憶で胸をいっぱいにしたいと。けれど、今はまだいけない。
 映画の中の恋人たちがなつかしい。踊ったり、囁きあったり、罵りあったり、傷つけて、離れて、また出逢って。さまよえる悪夢のような恋。
 発送を終えて、桜を見た。今年の桜は、冷たい風の中で揺れていた。

 ものも言わず、ときには生命のないこれらの被造物が、あふれんばかりの愛をもって私の目の前で私に迫ってくるので、幸せになった私の目には、まわりのどこにも、死の影が見えなくなっています。存在するものすべて、私が覚えているものすべて、混乱した私の考えが触れるものすべてが、私には、なにものかであるように思えるのです。(……)私のなかで、私のまわりで、さまざまな力が恍惚となって、ひたすら無限に抗争していることを、私は感じています。(ホーフマンスタール「[チャンドス卿の]手紙」)

 水中書店に寄ったあと、テオレマカフェで本を読んでいたら、ものすごく眠くなって、うつむいたまま、少しのあいだ眠ってしまった。夢をみて、目覚めた瞬間、忘れてしまった。何か、美しい、不思議なものに触れて、手の中でそれが溶けていったような感じが残った。『郵便配達夫シュヴァルの理想宮』を2章まで読んだ。