2020年11月6日金曜日

拾い読み日記 213

 
 まったく本が読めなくなってしまった。
 仕事の合間に、アメリカ大統領選のニュースを見たり、ツイッターを見たりしている。

 こういう、余裕がなくて追い込まれているようなときに不思議とその姿を見たくなるのが宮本浩次で、今日は、「Do you remember?」のMVを、何度か見た。うつむいて歌っているところが、よかった。音と映像のずれも、なかなか。ときどき鏡に、映像を撮っているカラフルな服の人がうつる。

 さようなら昨日よ
 こんにちは今日よ

 あれっという間に、今日が昨日になるので、追いつかない。
 

2020年10月28日水曜日

拾い読み日記 212

 
 8時ごろ仕事が終わり、疲れていたけれど、明日の珈琲豆がないので、駅前まで買いに出かける。そのあと、タイ料理屋でばんごはん。ひさしぶりに行ってみると、前にいた店員さんは、誰もいなかった。
 のみすぎた感じの中年女性が、店員さんに絡んでいた。店をやめることをどうして直接言ってくれなかったのか、ということらしい。
 「淋しくないの」「何が」「会えなくなるのが」……なんて、ここは、スナックか? と、ドキドキしながら、聞いていた。こんなに密な店ではなかったはずだが、どうしたことか。

 持っていったウルフ『自分ひとりの部屋』(平凡社ライブラリー)は、少ししか、読めなかった。

 わたしの口からは噓が溢れ出ますが、中には真実もいくらか混じっているかもしれません。その真実を探し出して、取っておくに値する部分があるかどうか、決めるのはみなさんです。
  
 本当よりも噓のほうに、真実が含まれていることは、あるだろう。 
 
 何だかどっとつかれたので、キューピーコーワヒーリングをのんで、ねよう。

2020年10月26日月曜日

拾い読み日記 211

 
 アンナちゃんのこと、確か2回ほど、ツイッターに書いたな、と思って、読み返した。

 持っている本が古びていくことを、本が人になつく、と表現した女の子がいた。確かに、いま家にある本をすべて新品に取り替えられたら、とても淋しいだろうと思う。自分の一部を失う、というのは比喩でなく。自らの手の跡や、眼差し、共有した時間を、なくすということ。本だけが知っていた「わたし」。(2016.1.29)

 届けてくれた『へんしん不要』、読んでいたら、すごく、返事が書きたくなる。ぜんぶ読んだら、へんしんしたい。

 ツイッター、アカウントは消したけど、ダウンロードしておいて、よかった。思い出したくない感情も、なかったことにしたい日々も、消えてなくなるよりは、いい。言葉のなかに、「わたし」がいる。

 いろいろとうれしくて、のみすぎたみたい。ふらふらだ。

2020年10月23日金曜日

拾い読み日記 210

 
「北と南とヒロイヨミ」はいつのまにか解散する流れになっていて、今度はバンドを組もう、という話になる。バンド名は、「ゾフィー・芋づる式」。昨日みた夢。Kくんは、楽器はたぶんできないと思うが、犬の鳴き声は、上手い。自分は、下手なウクレレ。

 何かちがう、何かちがう、という違和感から、レイアウト調整と出力を繰り返して、ようやく送信。そのあと、倒れ込むようにして寝た。少しのつもりが、二時間経っていた。

 はたらきすぎかもしれない。明日は休もう。

 夜、石井桃子『幻の朱い実』を、ふたたび読み始める。上巻の終わりあたりでストップしたのは、何年前のことか、もう思い出せない。文庫版をあらたに買った。冬が来る前に読み終えたい。そんな気もするし、ゆっくり、ゆっくり、長い時間をかけて、読みたい気もする。

2020年10月17日土曜日

拾い読み日記 209


 落ち葉は蝶の羽根に似ている。書物のページとページの間で乾いて、それらは飛翔の記憶を変わることなく保ち続けている小さなもの言わぬ吸取紙である。(ジャン−ミッシェル・モルポワ詩集『エモンド』有働薫訳)

 疲れてうつろなあたまのなかで、ひらひら小さく舞うものがあって、なぜだろう、と思いをめぐらすと、今朝読んだ詩の一節だ、と気がついた。飛翔の記憶。重たい身体も、地上から、少しだけ浮き上がる。

 つめたい雨に打たれて、小鳥が柿をたべていた。メジロと、ムクドリだろうか。シジュウカラかもしれない。今日の雨で、また葉がたくさん落ちただろう。

2020年10月16日金曜日

拾い読み日記 208


 3週間ぶりに神保町へ。仕事帰りに、東京堂で新刊を見てまわる。お昼休みにもいったけれど、近いから、ついふらっと入ってしまう。そのあと紙を買ったり、クラフトビールをのんだりして、ゆっくり過ごす。携帯電話を忘れてきたので、ぼうっとする時間が長くなる。以前はこんなふうだったな、と懐かしく思い出す。すきまの時間、時間の余白。そういうものが、なくなってしまった。

 夫といつもの焼き鳥屋さんにいこうとしたら、満席で入れなかったので、駅前の鳥貴族で夜ごはん。本屋で見かけた新刊の装幀の話など。ある人の最新の仕事について、何かへん、何かトリッキーなデザインなんだよね! と文句をつけたあと、トリキでトリッキーだって、としばらく笑いがとまらず。しかもトリキブラン(白ワイン)をのんでいた。

 夫が絶賛していた荻原魚雷『中年の本棚』を読み始める。おもしろい。「「四十初惑」考」には、説得力がある。自分自身の40歳のころをふりかえりつつ読む。あんまりふりかえりたくないけれど。
 夫はこの本で、「中年の危機」を乗り越えた、という。気がはやいなあ。自分は今でも、乗り越えた、という実感はない。ないなりに、どうにか過ごしている。

2020年10月10日土曜日

拾い読み日記 207


 手帳に書いた予定の日が
 かならず来る
 世の中に
 これくらい恐ろしいことはない

 夜もふけて、北村太郎『港の人』を開く。もしかしてこの詩によって、20代の自分は、北村太郎という詩人に、特別な親しみを感じたのかもしれない、と思う。来年の手帳をめくるとき、かすかなおそろしさを、いつも感じる。

 夢をたくさんみる。昨晩は、小冊子を数えたり、ならべたりする夢。

 雨音をききながら、紙を切ったり貼ったり、めくったりして、ゆっくり過ごせた一日だった。
 明日はてきぱきしごとをしよう。『何かが道をやってくる』の続きも読むつもり。今日は、半分まできたところで、やめておいた。重たくて暗くてとびきり魅惑的な、ファンタジーだ。