2025年7月29日火曜日

拾い読み日記 328

 
 今日もプールはにぎわっていて、たのしげな声にこころがあかるむ。日がしずむころ、ようやく、部屋から外へ出た。北の空にはコーラルピンクの雲がたなびき、西の空では三日月がやさしくかがやいていた。金色でも銀色でもない、生成り色の光。やわらかできよやかな光。

 ポール・オースター『オラクル・ナイト』を読み終えた。

 人間が人間に対してそれをやったんだ、これっぽっちも疚(やま)しく思わずに。それが人類の終わりだったんだよ、ミスター高級靴さん。神が人類から目をそむけて、永久に世界から去ったんだ。そして俺はそこにいて、自分の目で見たんだ。

 小説の中の小説で語られた言葉は、真実であり、現実だった。力をうばわれ言葉をうしなっていた。今は、力をあたえてくれるものを必要としていて、そのひとつは、「本」であり、こういうときに、なにより、本とは、本以上のものだ、と感じる。

2025年7月18日金曜日

拾い読み日記 327


 「コンノさんの石は、まあまあですね」と、チャーミングな看護師さんがいった。すごく大きい石の人もいるんですよ、と。
 出てきた石は、10ミリ弱のものがふたつだった。このような塊がからだのなかで作られたなんて、しんじがたい。からだのなかでできたものが目の前にあることも、ふしぎでしかたがない。捨てたいけれど、もったいないような気がして、捨てないでおく。ときどきケースから出して、手のひらの上でころがしている。

 石は内蔵だ
 ブラヴォー,  ブラヴォー
 石は空気の幹だ
 石は水の枝だ

 (ハンス・アルプ「家族の石」)

 このところ、アルプの作品集を、たびたび繙いている。とりわけ彫刻作品に惹かれ、眺めていると、よい気持ちになるのはどうしてだろうか、とかんがえている。からだの奥にひそんでいるなめらかな芯を、なでられて、かたどられた、みたいだから? いびつで、きみょうで、のびやかなからだへの、あこがれがつのる。
 作品集を閉じたあと、水彩絵の具と筆で、てきとうにかたちを描いた。何のためでもなく、ただ、やってみたいから、そうした。

2025年7月16日水曜日

拾い読み日記 326


 手術が「一瞬です」といったのは外科医で、もちろん、胆嚢摘出手術が一瞬で終わるわけはなく、つまり、彼は手術をする側でなく受ける側の感覚のことをいったのだ。目を閉じて、開いたら、もう終わっていると。手品みたいだ、と思ったせいだろうか。臍から内臓でなく鳩が出てくるイメージが、しばらくあたまから離れなかった。

 外科医はいつも、外科医らしく、キッパリしたもののいいかたをした。むだなことは、一切いわない。手術がはじめてだから、ちょっと怖い、といえば、「あたりまえです」。手術後には「予定どおりです」。翌日に、傷が痛いと伝えると、「昨日の今日だから」といった。
 しかし、邪気がなく、まっすぐな目をしているので、さほどつめたい感じはしなかった。
 退院の日の朝には、前日とさほど変わっていない臍まわりを凝視したあと、傷口のテープを、明日剥がすように、と指示した。そのあとは、「野ざらしで」。野ざらしの臍とは何か。傷跡には何も貼らないように、ということだった。

 入院の3日前に印刷所で立ち会いがあり、そのあと寄った本屋で買ったポール・オースター『オラクル・ナイト』を読みすすめる。「私は長いあいだ病気だった。」という一文からはじまる小説だ。

 何もかもが揺らぎ、ふらつき、いろんな方向に飛び出していって、最初の何週間かは、どこで自分の体が終わってどこから外界がはじまるのかも定かでなかった。

 本は、すこし読んでみて、いけそうだ、と思わないと買わない。とくに小説は。2ページ目の、この文章を読んだから、この本を手に入れた。病のあとの、ややおとろえた身体で読むと、虚と実の境目だってあいまいになる。今朝は、求婚してきた人と連絡がとれなくなる夢をみた。うたがいようがなく、『オラクル・ナイト』の影響で。

2025年7月13日日曜日

拾い読み日記 325


 なおす、のはどうやるのです?
 手術です。
 シリツ! シリツですか?!(とは、わたしはいわなかったけど、そのとき、突如、つげ義春の『ねじ式』の女医が、「シリツします」といったのを思い出していたのだ。)

 手術の前日に、藤本和子『砂漠の教室 イスラエル通信』を拾い読みした。切羽詰まっていたので、手術や、麻酔や、検査について書かれたところばかり読んだ。
 婦人科の、内診台に吊してあるカーテンについて。「配慮」によって、上半身と下半身は分けられる。切り離される。診察室は、個室ではなく厩のようなつくりになっているから、「コレ、ダレ?」と、医師にいわれたりする。わたしはわたしではなく、ひとつの下半身になり、医師のほうは、顔のない、手になる。いや、手、というのは、まだ人間的だ。「あいつらは顔のない、ゴム手袋をはめた手だ。」

 手術を振りかえって、もっとも恐怖をおぼえた瞬間は、手術室に入ってからの確認のときだった。
 お名前は。「コンノノブコです」(正直にいえば、これがわたしの名前、という実感はあまりなく、ただ、保険証に刷ってある名前を便宜的に使用しているに過ぎない)。手術する部位は。「タンノウです」。それから、手首につけられたリストバンドのバーコードを、バーコードリーダーで、「ピッ」と読み取られる。レジに持ってこられた商品のようなわたし。これからからだを切られて内臓を出される、その前に耳にする音にしては、軽すぎる気がした。

2025年7月10日木曜日

拾い読み日記 324


 二泊三日の小さな旅を終えて帰宅した夜、ベランダから、桃色の月が見えた。まるくて甘くてやわらかそうで、口に含むと、すぐに溶けていきそうな月だった。

 ねむっていたあいだにみていた夢には、音がなかった。小さな町を、惑いながら移動した。だれかに連れられていたのかもしれない。そこはかとない不安のなかに、これまで感じたことのないような陶酔感があって、もっと先へすすみたかったのだが、突然、肌色の巨大な壁があらわれて、そこが、いきどまりだった。「終わりましたよ」。あの瞬間、目が覚めて、息が止まった。それから、新しい呼吸がはじまった。つまり、あのとき、新しい生があたえられたというのか、不思議だけれども、そんな感じがしている。
 長い夜を越えて、翌朝には、そろりそろりと、初めて歩く人のように歩いた。

 川上弘美『ぼくの死体をよろしくたのむ』を持っていって、すこし読んだ。部屋を出入りするひとびとに、なんとなくタイトルを見られたくなくて、隠しながら、「憎い二人」を読んだ。

 「手術とは、他人の手をみずからの内部に入れることだろう。」(平出隆『左手日記例言』)
 ひととき、他人にまかせた(よろしくたのんだ)身体は、自分ひとりだけのものではないように感じられる。この感覚が、長く続くといいと思う。

2025年7月3日木曜日

tweet 2016/7/3

 
 昨日は、さまざまミスを犯したが、どうにか3台刷りおわり、完成までの目処がたった。じわじわと、本ができていく。何かを追いつめていくようであり、どこかに追いこまれてゆくようでもある。不安の「安」の活字が見つからず、ある歌が刷れなかった。

2025年7月1日火曜日

拾い読み日記 323

 
 7月1日。プール開き。窓辺で一番のりの泳ぎ手を見まもる。ゆっくり歩いてきて、水に足を入れて、すこしバランスを崩した。思ったより水が冷たかったのか。空には繊細なレースのような白い雲がひろがっていて、それは波打ち際の景色にも似ていたので、いつか見た海があたまをよぎった。

 昨夜はシリアルキラーに追われる夢をみて、午前2時に目を覚ました。えたいのしれないおそろしいものがどこまでも追ってくる、しかも、ものすごいはやさで。脚は車輪のようだった。シリアルキラーが背負っていた重そうな荷物の中身はわからなかったが、ガチャガチャと金属音がしたのはおぼえている。目覚めたとき、上半身は汗をかいていたが、下半身は冷えていた。

 それから眠れなくなったので、本棚を眺め、クラリッセ・リスペクトル『水の流れ』に手をのばして、少しだけ読んだ。

 少し怖くもある。自分の身を委ねることが。次に訪れる瞬間は未知だから。次の瞬間を作るのはわたし? あるいはそれは自ずとできあがる? わたしと瞬間はいっしょに呼吸をしながら次の瞬間を作る。闘技場に立つ闘牛士のように機敏に。