あるとき、好きな作家が朗読するのを聞いて、あれっ?と思いました。読んでいたときに自分の中に響いていた声とちがう、ということに気がついて。現実の声の圧倒的な存在感を前にまぼろしの声はあえなくかき消え、ただ声はその豊かさゆえに音楽のようなものとして耳に残り、あるいは残らず、そのうちいろんな雑念もわいてきて(前に座ってる人のシャツの柄がへん、とか、このあと何食べよう、とか)、つまり、自分は耳で読書を楽しむ能力がないのではないか、という結論に達しました。だいたいふだんからして、人が話しているときもうわの空で、ただその顔と声を鑑賞してしまうたちです。
同様に、メールにも声があるなあと思います。現実のその人の声とはちがう声。つるつるした画面に光る無味無臭な書体で読む、あられもないほど意味内容だけの言葉は、ときに尖った氷のように鋭い声音で受け手に届いてしまうことがあります。たぶん自分もそんな氷のような声でたくさんの人を傷つけてきたと思います。
実際に声にのせていえないことをなぜメールでするする書いて伝えてしまうのか、「!」や「…」や「ー」で自分の声が変えられるとでも無邪気に思っているのか、メールなんかおぼえるんじゃなかった……、と余計な言葉を吐きすぎた自分がいやになってしまったときは、だれにも会いませんように、と祈りながら、灰色に沈んだ街に出ていきます。六月の濡れた緑のうつくしいこと。
すべてのものは吾にむかひて
死ねといふ、
わが水無月のなどかくはうつくしき。
伊東静雄「水中花」より
伊東静雄がメールを書いたらどんなかなあ。などと馬鹿なことを考えてみたりみなかったり。
追伸 たぶんあしたは(容赦なく)飲みますけども…