2011年6月29日水曜日

なずな





堀江敏幸さんの『なずな』(集英社)を読んでいたら、今から約十年前、ほんのわずかだったけれど、この世にやって来てまもない人とともに過ごした時間のことを、とても生々しく思い出し、気づけばなずなちゃんが描かれたところばかりを目で追って、くりかえしくりかえし読んでしまいます。頭のほうから伝わる「もわん」とした熱、ミルクをどんどんどんどん飲む勢い、耳元のゲップ、甘い汗の匂い、不思議な音楽のような声、愛嬌(あるいは迫力)たっぷりの放屁音。ちなみに、自分の子のことではなく、甥っ子のことです。

日一日と変わりゆく愛する者、その一瞬の生をあますことなくとらえようとした言葉は熱と粘り気を帯びていて、読むわたしの身体の中に入りこんでぺったりくっつき、内側からつよい力で五感を揺さぶります。いつのまにか自分も、なずなちゃんと菱山さんをはらはらしながら見守る、親戚でもないのに親戚みたいな周囲の人たちの一員になって、二人の別れが近づくあたりでは、せつなすぎて胸が痛くなりました。菱山さんの愛情が、どんなに深く濃やかでも、けして度を越さない、節度をなくさないものだから、よりいっそう。


思い出したのは、石垣りんさんの『詩の中の風景』(婦人之友社)で知った山本沖子さんの詩です。


 紺色の制服を着て、カバンをさげ、中学校へ行こうとする娘に、私はかたりかける。


 いってらっしゃい、気をつけてね。

 赤ちゃんだったあなたを抱いて、ママは待っていますよ。


              山本沖子「朝のいのり」より


「赤ちゃんだったあなた」には、どんなに会いたくても会えないけれども、『なずな』を開けば、いつでもあの時間に戻って、あの瞳に、あの指に、あの声に会える。絶え間なく流れて、過ぎ去って行くものの四隅をいつまでも留めておく、やさしい重しのような物語です。実際、この本はなかなかに分厚く重いので、とても片手では持ちきれません。

「あ、お、あ」「はー、うー」「へぷ」という、多彩で表情ゆたかなななずなちゃんの声をそのまま線にしたかのような装画は、堀江さんの娘さんが子どものころに描いたものだそうです(『クロワッサン』情報)。

「なずな」というカバーのタイトル文字は、書体デザイナー今田欣一さんが設計した「くれたけ」という文字。すっきりしているけれど、ほどよい丸みがなんとも愛らしい文字です。とくに「な」の、くねんとしたあたりが、赤ん坊の輪郭、そのしなやかな曲線を彷彿させます。カバーに使われた紙の名前は「マーメイド」。やわらかい凹凸が指に心地よく、赤ちゃんのほっぺたをすりすりするみたいに、いつまでも撫でまわしていたいような手ざわりです。



追伸 というわけで今田欣一さんの講演があります! そして三浦しをんさんの『ふむふむ』(新潮社)に大石さん登場。

さらには「新宿わが街」。(くわしくはすべてこちらに。もりだくさんです)






2011年6月22日水曜日

ある日、表参道にて





表参道を歩いていたらオーバーオールを小粋に着こなした知り合いの男の子にばったり会いました。彼とは年は10歳くらい離れていますが、数年前に肩をならべてタイポグラフィを学んだ、いってみれば同級生のようなものです。やけに強い陽射しの下ですこし立ち話をして別れたあと、ふらっと立ち寄った古本屋さんで、『VOU』を買いました。それから喫茶店で、買ったばかりの冊子をいそいでかばんから取り出して、活字とレイアウトの硬質な美しさに胸を高鳴らせつつぱらぱらめくってたら、ある詩を読んで、さっき別れた人のことをふわりと思い出しました。


 blue   伊藤元之


コカ・コーラをのんだ少年が

“スカッと!さわやか”

に透明人間になった

〈空があまりにも青い〉

と思ったら

宇宙パイロットになったきみの風船だったんだね


(『VOU』115号〈1968年6月〉より)

 

「詩ってなんですか?」「どういうのが詩ですか?」と、以前にいってた彼。なんどもなんどもヤマモトのモトをまちがえる彼。やけにメールが短い彼。あまり本を読まない、わけではないだろうけど、本を切実に必要としない人の、まぶしい健やかさ。本を買うこと、読むこと、なにかを書くことは、どこか健全でないような、うしろぐらいような感じがすることがあります。とくにこんな、光にあふれた夏のはじまりのような日には。


本棚から突然救済の翼が静かに、懐かしい予言者のように降りてくる、この妄想が振りはらっても振りはらってもわたしをつかまえている日がある。そんな日には本は見つからないことが多い。妄想のほうが激しいためどんな本もあの翼の形には合わないように思えてくる。帰って、とらわれているなにかのための言葉を探す。貧しい自分の中にしか、それはなかったりする。


(中村和恵『キミハドコニイルノ』彩流社)

 

今日もなにかにすがりたいような、ただわけもなく救われたいような気もちで、本棚の前に座りこんでいたら、奥のほうから何年か前に買った冊子が出て来て、開いてみると最近知り合った人の文章が載っていました。どれどれ、と読んでみたら、自分とおなじ匂いがして、なんだかちょっと安心しました。

さてこれから部屋の片付け。居間にぽこぽこ出現していた「本の斜塔」を、しかるべき場所に移動させようと思います。



追伸 レジに知り合いの店員さんがいると本が買いにくい…ので、そっと棚に戻しました。かたじけない

2011年6月13日月曜日

松本





 アメリカ   辻征夫


土砂降りの雨のなか

レインコートの襟たてて

猫と

鸚鵡と

子豚のブギウギつれてアメリカへ行った

夢をみた

(くしゃみ)して


目覚めれば

玄関に

猫と

鸚鵡と

ブギウギと

雫したたる傘があり

旅の疲れがどっと出た


(『辻征夫詩集成』書肆山田)



ぐるぐる歩きまわって汗をかいて、湿ったぞうきんみたいなからだを引きずるようにして五日ぶりの家に帰ってみると、待っていたのは干しっぱなしの洗濯ものとよごれもの、ビールの空き缶に二つ折りで重なった新聞の山です。家の者は、新しいまん丸いめがねをかけて、しれっと「おかえり」といいます。旅の疲れがどっと出ましたが、めがねがなかなか似あうので、まあ、いいことにしました。本音をいえば、洗濯ものには、気づいてほしかったけれども。


実家のある高岡から糸魚川を経由して穂高へ、友だちの結婚式に参加して、帰りは松本に立ち寄って帰ってきました。


松本で買ったものは、野鳥のブローチ三個と古本六冊。その中の一冊をすこし拾い読みして気持ちを落ちつけてから、たまった家事と仕事に取りかかることにします。


ある風景をだまってながめる、それだけで欲望をだまらせるに十分な日がくるのだ。空白が、ただちに充実に置きかえられる。


J・グルニエ『孤島』(井上究一郎訳/竹内書店新社)


旅先で見た風景が、本の言葉にかさなります。車窓からながめた、夢か幻のように淡くにじんだ水平線と、鳥を探しながらあおぎ見た、安曇野のつややかで匂うような緑と。こころのすみずみまで平らかで、満ちたりていた時間でした。


写真は松本の古本屋にて。二軒訪ねて、二軒ともで、猫の話に花が咲きました。



追伸 あきさんの展示がはじまりました!

2011年6月6日月曜日

旅は道づれ





前に書いた自分の文章というのは、熱を入れてひと息に書いたものほど読みかえしたくはないもので、とりわけこのブログを始めるときに書いた「はじめに」の文章は、タイムマシンに乗って飛び蹴りしにいきたいくらいいやだなあと思います。とくに「めぐりあえたことば」のあたりが、我ながらきもちわるい。でも、書きかえたり削除したりすることは、なんだかひきょうな感じがするのでしません。


頭の中が言葉や言葉じゃないもやもやしたものでいっぱいになりそれに飲みこまれそうになったら、取り出して見てみないではいられません。弱さのせいでも、好奇心のせいでもあるでしょう。でも、書いているうちに頭の中にあったことはどうでもよくなり、ただ言葉を繋げたり切ったり足したり引いたり思いついたり入れ替えたり眺めたり聴いたり、その行為じたいを我を忘れるほどたのしんでしまって、書き終わってからも書いた言葉が頭の中でガヤガヤ騒ぎ出し、日常生活を浸食しそうになったりする。これでは書くことでバランスを保っているのか崩しているのか、まったくわかりませんが、でも、こうして形にすることで確実に明らかになることはあるし、おそらく少しは気が晴れているのでしょう。書かないでいられたら、それはスマートなことですが、もうスマートじゃなくてもいい、と開きなおることにしました。ということで、ここに書いていることは、ただ言葉とべたべた戯れているうちにできたもの、どれもほんとうのような、うそのようなものです。


ものごころついたころから「なにを考えているのかよくわからない」と周りからいわれ、人から話しかけられると後ずさりしてしまうのが癖だった(いまは逆に近づきすぎて後ずさりされたり)自分にとって、読むこと書くこと本を作ることは、人と世界に近づいて関係を結んでいく、とてもたいせつな手段のように感じています。それはまさに旅の道づれのようなもの。そんな旅の終わりには、本と言葉になぜここまで夢中になってしまったのか、その秘密がすこしはわかっているでしょうか。わからなくてもいいような気もするけれども。


ヒロイヨミ社もananas press本の島も、次の活動に向けて動きはじめています。たぶん秋から、いろいろなことが形になっていくはずです。楽しみにしていてくださったら、うれしく思います。



追伸 ふと、大学卒業時にもらった寄せ書きの「変」と「独特」という字を数えてみる

2011年6月4日土曜日

やま かわ うみ


先ごろ創刊準備号が刊行された自然民俗誌『やま かわ うみ』の発刊記念イベントがあるそうです。詳細はこちらに。興味のある方、ぜひ足をお運びください。

『やま かわ うみ』には、ヒロイヨミ社広報部(自称)も、なんか書いています。


追伸 広報部は山へ、わたしはふつかよいです。ワインがなあ……

2011年6月2日木曜日

わが水無月の





あるとき、好きな作家が朗読するのを聞いて、あれっ?と思いました。読んでいたときに自分の中に響いていた声とちがう、ということに気がついて。現実の声の圧倒的な存在感を前にまぼろしの声はあえなくかき消え、ただ声はその豊かさゆえに音楽のようなものとして耳に残り、あるいは残らず、そのうちいろんな雑念もわいてきて(前に座ってる人のシャツの柄がへん、とか、このあと何食べよう、とか)、つまり、自分は耳で読書を楽しむ能力がないのではないか、という結論に達しました。だいたいふだんからして、人が話しているときもうわの空で、ただその顔と声を鑑賞してしまうたちです。


同様に、メールにも声があるなあと思います。現実のその人の声とはちがう声。つるつるした画面に光る無味無臭な書体で読む、あられもないほど意味内容だけの言葉は、ときに尖った氷のように鋭い声音で受け手に届いてしまうことがあります。たぶん自分もそんな氷のような声でたくさんの人を傷つけてきたと思います。


実際に声にのせていえないことをなぜメールでするする書いて伝えてしまうのか、「!」や「」や「ー」で自分の声が変えられるとでも無邪気に思っているのか、メールなんかおぼえるんじゃなかった……、と余計な言葉を吐きすぎた自分がいやになってしまったときは、だれにも会いませんように、と祈りながら、灰色に沈んだ街に出ていきます。六月の濡れた緑のうつくしいこと。


 すべてのものは吾にむかひて

 死ねといふ、

 わが水無月のなどかくはうつくしき。


       伊東静雄「水中花」より


伊東静雄がメールを書いたらどんなかなあ。などと馬鹿なことを考えてみたりみなかったり。



追伸 たぶんあしたは(容赦なく)飲みますけども…