2020年7月1日水曜日

拾い読み日記 192



 空の灰色と湿気のせいで、からだが重たく、息苦しい。すぐ横になりたくなる。こういう日は、一日なんにもしなくても、いいのかもしれない。と思ってはみても、なにかしたいと思う。

 風が強くて柿の木の枝が折れないか心配だ。ちいさな実がたくさん生っている。なりはじめから、ずっと見てきた。たべるため、というよりは、実のために、心配だ。生った実は、熟してほしい。まっとうしてほしい。実としての生命を。

 レベッカ・ソルニット『迷うことについて』を3章まで読んだ。
 
 もう長い間、視界の限界にみえる青に心を揺り動かされていた。地平線、はるかな山並み、遠方にあるもの。隔たりの向こうにあるのは内面の色だ。孤独と憧憬の色。こちらからみえるあちらの色。自分のいない場所の色。そして決して到達することのできない色。

 雲が切れて、遠くに布の切れ端みたいな青空が見えた。
 からだの痛みも、だるさも、消えるわけではない。何かにこころをうばわれているときだけ、それを忘れていられる。
 小さな青空を探すこと。見つけること。見つづけること。

2020年6月24日水曜日

拾い読み日記 191


「これらの断片を集めて何を作るつもりですか。」親切心から、ある友人がそう私に尋ねた。
 隠れ家ではない仮の小屋を建てるのだ。忘却を通して日の光が入ってくるような一時的な小屋を、そこにいると自分が幸せであるような成り行きまかせの漂流する家を。
 建設材料は思い出と引用だ。時には一握りの雪や、藁くずと灰、羽毛と糊も使う。(ジェラール・マセ『つれづれ草』)
  
 晴れたり曇ったりの水曜日、『つれづれ草』を読む。本のなかをそぞろ歩きするように、気ままに、あてどなく。

 今朝、また足がつった。激痛だった。こないだのこむらがえりも水曜日だった。火曜日の過ごしかたに、すこしだけむりがあるのかもしれない。疲れと冷えと、お酒のせいだろうか。

 夢で、旅の中にいた。部屋の窓から、はるか遠いところまで見渡せて、青空と、草原がどこまでもひろがっていた。けれどもその窓はこわれていて、直そうとすると、窓枠ごと落ちていった。それから、足がつった。

2020年6月20日土曜日

かまくらブックフェスタ in 書店


 晴れたのでうれしくなって、たくさん洗濯して、干したら、みるみる雲が増えてきました。いかにも梅雨です。

 かまくらブックフェスタ in 書店、以下の書店で開催中です。詳細は、こちら、港の人のHPをごらんください。

・くまざわ書店 武蔵小金井北口店
・三省堂書店 神保町本店
・増田書店 南口店(国立)

 このところは毎週神保町に行っているので、三省堂書店にときどき寄ります。いくつか売れていました。ありがとうございます。
 かまくらブックフェスタ in 書店は昨年から開催されていますが、町の大きな本屋さんに『ほんほん蒸気』やヒロイヨミ社の本がある眺めには、なかなか慣れなくて……じっと見ていたいような、すぐに立ち去りたいような、おかしな気持ちになります。でも、かまくらでいつもご一緒している版元の本たちに囲まれていて、こころづよいです。
 三省堂、隣のバーゲンブックのコーナーには、もう10年以上前に装幀した本が、何冊かありました。なつかしいというか、なんというか。

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 『ある日』という小冊子を作りました。今日と同じように、読んだり、思ったりした「ある日」の言葉をあつめました。
 手にとってみていただけたら。

2020年6月17日水曜日

拾い読み日記 190


 広い、しずかな美術館のカフェの窓辺の席に、Hさんといっしょにいた。Hさんはプリンをたべていて、なんだかあわててたべているようなので、もっとゆっくりしていいんですよ、時間はありますから、と声をかけ、コーヒーものみませんか、といったところで目が覚めて、足がつった。朝6時、最悪の目覚めだった。息もできないくらいの痛みの中、よく夜中にこむらがえりを起こしていた祖母のことを思い出していた。こういうのは、遺伝するのだろうか。痛い、という声に気づいた夫が、ねぼけながら足をなででくれたが、触られるとよけい痛いので、やめてもらう。今でもまだ、すこし痛い。

 夢は、いい夢だった。旅の時間のように、新鮮な感じがした。なごやかで、おちついていて、おだやかなたのしさがあった。

 この世に夢ほどふしぎなものがまたとあろうか。夢は「第二の人生」であり、「開かれぬ手紙」である。また人は夢のなかでむしろ本当に目ざめ、昼よりも自分の魂の営みをじっと見つめているのかもしれない。(北杜夫『或る青春の日記』)

 もう少ししたら、美術館にいってみようか。夢の中の美術館には、人はほかに誰もいなくて、ほんとうにしずかだった。何をみたかはおぼえていない。

2020年6月9日火曜日

拾い読み日記 189


 暑い日。今日は電車に乗っていつもより遠くにいく予定なのだけど、体力はもつのかどうか、不安だ。

 昨夜、アントニオ・タブッキ『インド夜想曲』(須賀敦子訳、白水社)を読み終えた。ちかごろあたまがぼんやりして、ぜんぜん本が読めない、と思っていたが、するするとページをめくらされ、最後のページまで連れてこられた。夜、ひとりの部屋で、夜の闇が物語のなかにまで侵入してきて、読み終えても暗い靄がかかったままで、やっぱりあたまはぼんやりしていた。

 夜中の待合室で、弟に背負われた小さな占い師が主人公に告げる。
 「あなたはここにいない」。あなたはもうひとりの人。

 まるで自分にいわれたみたいだ。でも、どうしてだろう。

2020年6月2日火曜日

拾い読み日記 188


 あたまのなかで何かが鳴り響いているのか、今はどんな音楽をかけても、うるさく感じる。
 アントニオ・タブッキ『レクイエム』を読み終えた。長い時間をかけて読んだ小説だから、読み終えるころには、淋しくて、ひきかえしたいような気持ちになった。「みんな、さよなら。そして、おやすみ。」もっとずっと読んでいたかったのに。
 読み終える、といったって、じつは、終えてなどいなくて、本を閉じたあとも、読書は続いていく。きっと、7月の暑い夜、どこかの街角で、なつかしい人影を見かけたり、耳元でささやく声を聞いたり、よぎる言葉に気をとられたり、するだろう。またどこからでも読めばいい。

 このレクイエムは、ひとつの「ソナタ」であり、一夜にむすんだ夢でもある。わが主人公は、同じひとつの世界のなかで、生者に会い、死者に会う。そこに出てくるひとびと、事物、場所は、たぶんひとつの祈りを必要としていたのだろう。そして、わが主人公には、物語という彼なりのやり方でしか、その祈りを唱える手だてがなかった。(「はじめに」)

2020年5月29日金曜日

拾い読み日記 187


 pha『どこでもいいからどこかへ行きたい』(幻冬舎文庫)をねころがって読んでいて、すごくサウナにいきたくなり、ためしに家で温冷浴をやってみた。そのあと疲れて横たわり、起きてみたら、あたまがおかしな感じになっていた。
 パソコンの画面上の数字が2桁か3桁かすぐに判別できなくて、変だと気がついた。見ているものが何なのか、すぐにわからない。立っていても、ここにいないような気がする。何もかもに焦点が合わないような、うわすべりしているような状態だった。
 咄嗟に、脳か心の病かと思い、いろいろと検索してみる。「脳梗塞」? 早口言葉もいえるし、歩けるから、ちがうみたい。「離人症」? だいぶ近いようだった。あとから考えると、検索できるくらいなのだから、わりとだいじょうぶだったのだと思うが、そのときはパニック気味で、すぐに夫に連絡して、病院にいったほうがいいのかもしれない、とも思った。
 結局、文字も読めるし、歩けるし、たいしたことはないだろう、と気を落ち着けて、しばらく横になっていたら、元にもどった。
 あれが「サウナトランス」の状態だろうか? まさか。まったく気持ちよくはなくて、ただ居心地がわるく、不安なだけだった。いつもの自分ではない状態が、悪夢そっくりで、おそろしかった。

 小林康夫『若い人のための10冊の本』(ちくまプリマー新書)を読み終えた。passionateな本だった。「読書」のほうへ、「本」の世界へ、またあたらしく、扉が開かれたような、爽快な読後感。
 さて、今日は何を読もう。