2020年10月26日月曜日

拾い読み日記 211

 
 アンナちゃんのこと、確か2回ほど、ツイッターに書いたな、と思って、読み返した。

 持っている本が古びていくことを、本が人になつく、と表現した女の子がいた。確かに、いま家にある本をすべて新品に取り替えられたら、とても淋しいだろうと思う。自分の一部を失う、というのは比喩でなく。自らの手の跡や、眼差し、共有した時間を、なくすということ。本だけが知っていた「わたし」。(2016.1.29)

 届けてくれた『へんしん不要』、読んでいたら、すごく、返事が書きたくなる。ぜんぶ読んだら、へんしんしたい。

 ツイッター、アカウントは消したけど、ダウンロードしておいて、よかった。思い出したくない感情も、なかったことにしたい日々も、消えてなくなるよりは、いい。言葉のなかに、「わたし」がいる。

 いろいろとうれしくて、のみすぎたみたい。ふらふらだ。

2020年10月23日金曜日

拾い読み日記 210

 
「北と南とヒロイヨミ」はいつのまにか解散する流れになっていて、今度はバンドを組もう、という話になる。バンド名は、「ゾフィー・芋づる式」。昨日みた夢。Kくんは、楽器はたぶんできないと思うが、犬の鳴き声は、上手い。自分は、下手なウクレレ。

 何かちがう、何かちがう、という違和感から、レイアウト調整と出力を繰り返して、ようやく送信。そのあと、倒れ込むようにして寝た。少しのつもりが、二時間経っていた。

 はたらきすぎかもしれない。明日は休もう。

 夜、石井桃子『幻の朱い実』を、ふたたび読み始める。上巻の終わりあたりでストップしたのは、何年前のことか、もう思い出せない。文庫版をあらたに買った。冬が来る前に読み終えたい。そんな気もするし、ゆっくり、ゆっくり、長い時間をかけて、読みたい気もする。

2020年10月17日土曜日

拾い読み日記 209


 落ち葉は蝶の羽根に似ている。書物のページとページの間で乾いて、それらは飛翔の記憶を変わることなく保ち続けている小さなもの言わぬ吸取紙である。(ジャン−ミッシェル・モルポワ詩集『エモンド』有働薫訳)

 疲れてうつろなあたまのなかで、ひらひら小さく舞うものがあって、なぜだろう、と思いをめぐらすと、今朝読んだ詩の一節だ、と気がついた。飛翔の記憶。重たい身体も、地上から、少しだけ浮き上がる。

 つめたい雨に打たれて、小鳥が柿をたべていた。メジロと、ムクドリだろうか。シジュウカラかもしれない。今日の雨で、また葉がたくさん落ちただろう。

2020年10月16日金曜日

拾い読み日記 208


 3週間ぶりに神保町へ。仕事帰りに、東京堂で新刊を見てまわる。お昼休みにもいったけれど、近いから、ついふらっと入ってしまう。そのあと紙を買ったり、クラフトビールをのんだりして、ゆっくり過ごす。携帯電話を忘れてきたので、ぼうっとする時間が長くなる。以前はこんなふうだったな、と懐かしく思い出す。すきまの時間、時間の余白。そういうものが、なくなってしまった。

 夫といつもの焼き鳥屋さんにいこうとしたら、満席で入れなかったので、駅前の鳥貴族で夜ごはん。本屋で見かけた新刊の装幀の話など。ある人の最新の仕事について、何かへん、何かトリッキーなデザインなんだよね! と文句をつけたあと、トリキでトリッキーだって、としばらく笑いがとまらず。しかもトリキブラン(白ワイン)をのんでいた。

 夫が絶賛していた荻原魚雷『中年の本棚』を読み始める。おもしろい。「「四十初惑」考」には、説得力がある。自分自身の40歳のころをふりかえりつつ読む。あんまりふりかえりたくないけれど。
 夫はこの本で、「中年の危機」を乗り越えた、という。気がはやいなあ。自分は今でも、乗り越えた、という実感はない。ないなりに、どうにか過ごしている。

2020年10月10日土曜日

拾い読み日記 207


 手帳に書いた予定の日が
 かならず来る
 世の中に
 これくらい恐ろしいことはない

 夜もふけて、北村太郎『港の人』を開く。もしかしてこの詩によって、20代の自分は、北村太郎という詩人に、特別な親しみを感じたのかもしれない、と思う。来年の手帳をめくるとき、かすかなおそろしさを、いつも感じる。

 夢をたくさんみる。昨晩は、小冊子を数えたり、ならべたりする夢。

 雨音をききながら、紙を切ったり貼ったり、めくったりして、ゆっくり過ごせた一日だった。
 明日はてきぱきしごとをしよう。『何かが道をやってくる』の続きも読むつもり。今日は、半分まできたところで、やめておいた。重たくて暗くてとびきり魅惑的な、ファンタジーだ。

2020年10月9日金曜日

拾い読み日記 206


 太い枝から細い枝が垂れ下がり、そこに生った柿の実が熟して、ときどき風でゆらゆら揺れている。その実にメジロが止まり、揺れながら、実をついばんでいた。曲芸みたいだな、と思って見ていた。雨が降り続く日。

 レイ・ブラッドベリ『何かが道をやってくる』を買ったのは、先週、夫と行った銀座のナルニア国で。だいぶ前に持っていたけれど、読まずに手放してしまった。今また何気なく手にして、読んでみると、10月の話だった。「そして、彼らが一夜のうちにおとなになり、もはや永久に子供でなくなってしまったのは、その十月の、ある週のことであった。」
 文章が、ところどころ奇妙だったり美しかったりして、読むのをやめられないので、三分の一ほど読んだ。台風の季節に読むのに、よいようだ。
 
 最近、洋服を買うことを楽しみだした夫は、もう本はそんなに買わないと思う、といっていたが、その舌の根も乾かぬうちに、ナルニア国で、7000円以上も絵本を買っていた。ちいさな甥と姪に贈るのね、いいおじさんだな……と思ったら、ぜんぶ自分のための絵本、とのことだった。そのあとビールをのみながら、買った絵本をほこらしげに見せてくれた。

 永久に子供でなくなる、なんて、物語の中だけのことではないか。
 ひとは、自由に、おとなになったりこどもになったりできると思う。おとなの自分は、こどもの自分に、すきなだけ絵本を買ってあげられるのだ。

2020年10月2日金曜日

拾い読み日記 205

 夕方、夫と待ち合わせて荻窪の古書ワルツへ。 一時間ほど棚を見てまわり、そのあと餃子をたべにいった。夫がツイッターで知った店で、おいしそうだから行きたい、という。駅から歩いて数分の、半地下にあるその店のドアを開け、中に入ると、そこは明らかに、かつてスナックだった場所だった。一瞬、引き返したい気持ちがよぎったが、うながされるままテーブル席につき、餃子を注文して、買った本を見せ合いながら、おいしくたべた。ゆでた生姜餃子が、とくによかった。小さな店で、他にお客さんはいなかった。かなり、旅っぽい体験だった。夫は生ビールを2杯のんだ。わたしは1杯だけ。

 移動の電車で國分功一郎・互盛央『いつもそばには本があった。』を読み終えた。國分功一郎が、叢書エパーヴの(豊崎光一、宮川淳の)本について書いた箇所が、特に心に残った。

 本があまりにも綺麗で、かよわく感じられて、どこにも線が引けなかったこと。本だけでなく、彼らの言葉そのものにも同じことを感じたこと。繊細で精密な言葉の、弱さと遅さ、伝わりにくさ。

 こういう言葉から私たちは本当に遠く離れてしまった気がする。弱い言葉は理解されるのに時間がかかる。いや、言葉というのはそもそもそういうものではないだろうか。言葉が届くにはとても時間がかかる。それに一度届いても、その後、何度も何度も回帰してくるのが、言葉と呼ぶに値する言葉だ。

 古書ワルツで高橋英夫『花から花へ 引用の神話 引用の現在』を買った。見返しの灰色の紙に、今年亡くなった編集者I.Hさんへの、献呈署名がある。安く買えて嬉しい、という気持ちはすぐに消え、なんともいえない、割り切れないような淋しさが残った。