2021年1月16日土曜日

拾い読み日記 224

 
 あたたかい一日だった。凍てつく寒さの冬の日々に、こんな日がはさまれると、春の予感で幸福な気持ちになる。
印刷の合間に散歩した。広い駐車場の脇で枯れかけたエノコログサが風にゆれて、光っていて、ぽあぽあ、とか、もけもけ、とか、そんな擬態語が似合うな、と思った。のどかさのなかに、はっとするようなうつくしさがあった。

 毎日散歩する庭を覆っている草。草、草は神である。草——神——のうちに、わたしが愛してきたすべての人はいる。ジョルジョ・アガンベン『書斎の自画像』)

 天ではなくて草のなかに希望と信頼がある、とアガンベンは書く。ゆれるエノコログサに、その言葉をかさねていた。

 昨年おわりごろから、白内障、歯根破折、母指CM関節症、と故障が多い。50年近く使ってきたから、無理もない。肉体は有限なのだ、ということを痛感している。そう書くと、無限のものがあるみたいだな、と思ったが、どうだろう。ある、と思うときもあれば、あるのかな? と思うときもある。

 抜歯も無事にすんで、薬ものみおわり、今日からまたお酒がのめるのがうれしい。このところノンアルコールワインをのんだりしていたが、そんなにおいしくないし、夜は、ほろよい状態になるのがいい。

2021年1月12日火曜日

拾い読み日記 223


  雪は降らなかったようだが、寒い。とくに用がないので、家から出なかった。午後は頭痛がして、横になっていた。体調がよくないと、厚くて重たい本は読めない。モルポワの『エモンド』を読む。モルポワの本では、これが一番すきだ。たぶん、小さくて、薄いから。

 それは何ものでもなく、すべてである。その声、その耳、そのこだま。貝のように、断章は海のすべてのつぶやきを自らのうちに閉じ込める。断章はたった一人で無限について語る。断章の持つほんの少しの親しみ易さを絶対という。

 ユートピアに住んで書くこと、それはジャンルを超えて、破片となり、白熱した言葉に心を奪われ、それを噛みしめ、味わい、とことん使い果たしてしまうことである。

 ジャンルを超えていき、どのジャンルにも属さないありかたにあこがれる。言葉のありかた。本のありかた。存在のしかた。

 ある本をよんでいて、自分のすきな歌人が自死で亡くなっていたことを知った。48歳で。病死かと思っていた。その本には、彼女の歌から強い孤独感や寂しさをよみとって、もし誰かが見て(支えて)いれば……、といったようなことが書いてあって、なんだかげんなりして、本を閉じた。彼女の歌はそうした眼差しから遠いところにあるように思う。

 もうすぐ49歳になる。

2021年1月9日土曜日

拾い読み日記 222

 
 清水徹『書物について』を読んでいて「イエナ・ロマン派」が気になった。
 フリードリッヒ・シュレーゲルが19歳のとき兄に宛てて書いた言葉が引かれている。

 「ぼくが書くのは、作品の完成を楽しみたいからではなく、むしろ昔からぼくを捉えている衝動、ものを書きたいという燃えあがる衝動による。ぼくはこれを、無限なるものを追究しようとする憧憬と呼びたい」

 彼らは自分たちの文学を「永遠に生成をつづけるままで、断じて完成することがありえない」と定義する。

 『書物について』をどこまで読んだのか、どこを読んだのか、わからなくなってしまった。最初から読もうと思うが、最後まで読めるかどうか……。少しずつ、メモを取りながら読んでみよう。
 

2021年1月5日火曜日

Rêverie 日曜日の夢の始まり


 上柿絵梨子さんの新しいアルバム『Rêverie 日曜日の夢の始まり』をデザインしました。
くわしくは、こちらをごらんください。はりつめて、つかれているひとに、届くといいなと思います。
 音にあわせて、ことばと絵と写真を、ゆるやかに編みました。

 




2020年12月27日日曜日

拾い読み日記 221

 
 美容院でたまたま雑誌の星占いを読んだら、水瓶座は、来年、すごく運勢がいいらしい。スタートラインに立つような年、とも書いてあった。別の人の占いをネットで見てみたら、12年に一度のラッキーな年、とのことだった。そういう話はわりあいすきなので、もっとほかの占いも読んで、気分をもりあげたいと思う。「風の時代」のはじまり。
 何気なく、美容師さんに誕生日をたずねたら、今日だ、という。キリストと一緒ですね。おいくつになられたんですか、と聞いたら、31だという。おだやかで、やさしいおにいさんみたいな雰囲気の人だから、何となく、同世代かと思っていた。老眼の話とか振らなくて、よかった。
 
 『ユリイカ ぬいぐるみの世界』を読んでいる。うちにいるのはパペットだから、ぬいぐるみとは、少しちがう気もするが、共感するところも多い。
 数年前はぬいぐるみに名前をつけたり話しかけたりしている人の話を聞いて、ええ…?と思ったりしたが、今ではふつうにそれをやっている。どうしてか、自分でもよくわからないので、読んでいる。

 印刷機には、(平出さんみたいに)名前はつけていない。

2020年12月16日水曜日

拾い読み日記 220

 
 新しい眼鏡は度が強く、長くかけているのはつらいので、一日使い捨てコンタクトレンズも使ってみることにした。なかなか快適だ。ひさしぶりに自分の顔をはっきり見た。目の大きさと皺の感じが新鮮だった。近くが見えにくいので老眼鏡も買った。

 先日、Y先生に活版の歌を教えてあげようと思い、『浜田康敬歌集』を買い直した。

 文選に黒く汚れし我の手で我に縁なき愛語を拾う

 などなど、「愛」や「恋」の歌がいくつかある。活版以外の歌にも、ひかれるものがあった。

 逢いしことこまごまと記す日記帳吸取紙あて逆しまに文字吸わせつつ

 繊き文字の連なり長く便箋の最終行でのみ愛されている

2020年12月5日土曜日

拾い読み日記 219

 
 寒いので、家から出なかった。買いものも夜の食事づくりも夫がやってくれるので、のんびりしている。
 今日の仕事は、もう終わった。本棚から『永井陽子全歌集』をひきぬいて、ゆっくりと、ページをめくる。

 「モーツァルトの電話帳」の最後にある散文にひかれた。
 東京のホテルに着いて、疲れ切って、むしょうにモーツァルトが聴きたくなる。ウォークマンは置いてきてしまった。それで、自宅の留守番電話のメッセージの背後にかすかに流れる「トルコ行進曲」を、くりかえし聞く。「まるで虚空から一滴の真水を掬い取ろうとするかのように」。
 そこから、電話をめぐって、想像がふくらんでゆく。

 私が死んでも、部屋に電話が放置され、番号が生きているかぎり、私の分身はこの世に残り続けるのではないか。百年たっても二百年たっても、街を歩いていたその日のままに生き生きと。

 いなくなった人に電話をかけて、その声を聞いて、こころをしずめるようなことに似ているだろうか。疲れた夜に本を開いて、歌をよむということは。