2024年4月1日月曜日

拾い読み日記 296

 卓球が上手くなるには、ただやみくもに球を打ち返すだけではだめで、相手の動きを見て、来た球の回転や強さを見極める必要がある。ラケットをどう球に当てるか。角度とタイミング、スイングの速さと強さを、瞬時に判断して打ち返す。そうすべきなのだが、夢中になると、ほとんど何も考えられない。ただ、動くものに反応して身体が動く。犬や猫がボールを追いかけているのと、そう変わらない。つまり、卓球をしていると、あたまばかり使っている自分の動物性が、多少なりともめざめるようだ。勝つことや上手くなることよりも、その、めざめのほうが、自分にとっては大事だ。

 無我夢中である、と同時に、飛んでくるボールによって思いもよらない動きをする(させられている)自分自身のことを、おもしろいとも思う。そして、夢中でありながらも、ボールを打つ直前には、一瞬の思考というものが、確かにある。それは、あたまではなく、身体で、手で、なされているはずだ。

 ISIKAWA TAKUBOKU『ROMAZI NIKKI』を読んでいる。
 読みにくい。しかし、おもしろい。ページに目を落とすと、目が、なじみのない文字列から、逃げたがっているのがわかる。それでも、息をつめてゆっくりと文字を追っていくと、やがて意味が、あらわれる。読むという行為における、あたらしい感覚を、あじわうことができる。書き手が感じていたであろう、書くという行為におけるあたらしさの感覚が、読むものに、ひそやかなかたちで、伝えられる。もし、遅さともどかしさをいとわなければ。

 Yo wa Kodoku wo yorokobu Ningen da. Umarenagara ni site Kozin-syugi no Ningen da. Hito to tomo ni sugosita Zikan wa, iyasikumo, Tatakai de nai kagiri, Yo ni wa Kûkyo na Zikan no yô na Ki ga suru.

 先日、語の用い方が曖昧かつ不正確で、文法的にもまちがいの多い、とてもわかりにくい文章を読んで、おどろきとともに、つよい危機感を感じた。今、読むことと書くことを、これまで以上に自分に課さなければ、と思った。
 これまで、言語に対して、倫理的であることも論理的であることもできずに、ひたすら感覚的であったと思う。言葉と言葉にできないもののあいだで揺れていた。揺れていることそのものが、おもしろかった。これからも、そういう意味で、禁欲的には、たぶんなれない。
 しかし、もっと、誠実であれたら、と思っている。今はまだ、どうしていけばいいのかよくわからないのだが、ただ、その誠実さは、誰にも理解されなくてもいいものだ、ということはわかる。