昨日、宮下香代さんの展示を見に、蔵前の水犀へ。ゆらゆらゆれるモビール、和紙とワイヤーの繊細なオブジェ。風と光とたわむれる造形のあいだで、幸福な時間をすごした。かよさんには会えなかったが、展示のときに作家がいないと、実際に会えたときより、「会えた」感じがする。
そのあと、蕪木という喫茶店にいってみた。すこし入りづらい、すみずみまでつくりこんだ空間だった。喫茶店というよりは、喫茶店という表現なのだった。どきどきしながら、ドアを開けて入った。薄暗くて、メニューが読めない。老眼鏡を忘れてきたことに気づいて、万事休す、とあせったが、どうにか念力で読んで、「琥珀の女王」というアルコール入りののみものをたのんだ。1000円。手持ちぶさたで、本や手帖をぱらぱらめくって過ごす。けっこう待たされたが、のみものはとても美味しくて、もう一杯のみたいくらいだった。
6時半。いそいで駅に向かう。どこかで一杯やりたい。しかしなかなかお店が見つからなくてうろうろ。7時10分前になり、あせって、つかれて、何をやっているんだろう、と思う。それでも今日は、意地でも外でのもうと思い、ようやく、気楽な感じのお寿司屋を見つけて、入ってみた。常連の人たちが3人、それぞれに、仕切られたカウンターでのんでいた。その人たちの背中をみながら、ゆっくりのみくいしつつ、どことなく、旅情を感じていた。よく知らない町でのむことは、ほとんど、旅だと思う。かばんに入っていた文庫本(『動物と人間の世界認識』)は、ぜんぜん、読まなかった。老眼鏡がなかったから。
今朝、桂川潤さんの訃報に接する。実感がわかない。朝刊でも見たけれど。いつもひょっこりあらわれる、その感じが独特だった。10年ほど前、みずのそらでの年賀状展に参加してもらったし、展示にもときどき来てくださった。数年前、近況を話したときの、すこし困ったような表情が何ともいえず、忘れがたい。すごく繊細で優しい人なんだな、と思った。人を緊張させない人だった。そういえば、あの日は展示「窓の韻」の初日で、舞い上がってのみすぎて、帰ってから気持ちがわるくなって、つらい思いをした。
このふわふわした感じは、いつまでつづくのだろう。人が亡くなったことを聞くと、喪失感と淋しさにのみこまれる、同時に、自分もいずれ必ず死ぬ生きものであることを思い知らされるわけだが、それなのに、現実ではなく、虚構のほうに触れている感じがする。深い、暗い、巨大な穴のような虚構に。
「若かった頃に主人が誰か人の死に接して「人間が死ぬんやからなあ!」と、感慨深げに言っていたことを、私はよく思い出す。現に生きている人間が死ぬ、ということの言語に絶する不可解さを、そのとき主人は言ったのであった。」(高橋たか子「高橋和巳の七回忌」)
上田三四二『うつしみ』からの孫引き。人間が死ぬという、不可解さ。しだいに、生まれたことも、生きていることも、不可解なことに思えてくる。
急に空が暗くなり、雹が降ってきた。ものすごい音がする。まるで夢のなかにいるようだ。