2017年12月17日日曜日

拾い読み日記 7


 1217日、日曜日。お昼から出かける。とても寒くて、何度かくじけそうになる。
 代々木八幡へ。naniで「日高理恵子 樹の経験」。小さな空間に、大きな一枚の絵と、数名の人。他の人を気にしながら、近づいたり、少し離れたり、正面から斜めから、絵を、描かれた樹を、じっと見ているうちに、距離感や時間や場所の感覚がすっと狂わされ、いったい何を見ているのかわからなくなる瞬間があり、あれは、ふしぎな、一線を越えてしまうような感覚だった。言葉のない世界。ぼうっと少し霞んだような輪郭と、野生の植物生物の強さと繊細さを持つ画肌。ときには、線が、無数の古い傷に見える。
 
 もっと知りたくて、作品集を買って帰った。三鷹に戻って、駅前の喫茶店で本を開いた。「樹を見上げて」「空との距離」のシリーズには、見ることで、絵の中にダイブして深く深くどこまでもいざなわれてゆくような、ちょっとおそろしいような、目眩く感覚があった。ひとりでは支えきれないので、詩を読みたくなる。

 朝起きて窓をあける
 ともうそこには無限がやってきている
 空という無限が すぐ眼のまえに
 いる
 青い天空に 雲が動かない
 おそろしいような無限のただなかに
 ぼくたちはいる
 (飯島耕一「矩形という限定」)

 今うつしていて、4行目の「いる」の改行で身体に小さな震えが走った。「いる」とはいったいなんだろうか。
 
 鞄の中には宇佐見英治『迷路の奥』が入っていた。「存在の明るみは見えることと夢見ることの傷口であるかたちをとおして滲み出る」。絵を見にいくのは、ひとつの眼差しと、ある精神に、触れたいからだろうと思う。見ることで、見えないものに触れられたら、と。
 
 絵を見ることができて、画集を手に入れることができて、ほんとうによかったと思う。須山悠里さんによる、少しトリッキーともいえる案内状(何?と思った)がなければ、おそらく見のがしていただろう。日高理恵子さんは、美しいひとだった。