2025年10月7日火曜日

拾い読み日記 336


 こころもからだも、断片的なもので出来ている。それらはそれぞれのうごきによって、つながったり、はなれたりする。ぶかっこうなモザイク。できそこないのコラージュ。そういうものとしての、じぶん。モザイクの欠片や、コラージュの紙片が、あたまに落ちてくる。おなかかもしれない。それを手でひろって、書き留める。混乱した今、できることは、それだけだ、という気がする。
 
 囚われの身となり、狭い場所に身をかがめて眠るように強制される夢をみた。その強権的な女性は、高校のときの体育教師に似ていた。本の山が近くにあって、そこからグラフィック・デザイナーの作品集を見つけて開いた。そのデザイナーに対しては、現実には、あまり関心がないのに、それでも、夢のなかでは、その「本」と「デザイン」に魅了され、胸が躍り、力がわいてきた。


2025年10月6日月曜日

ある日 読書と断片




 あたらしい本ができました。『ある日 読書と断片』という本です。日付のある散文集で、拾い読みのための本です。印刷・製本は、リソグラフ印刷のJAMにお願いしました。自分で書いて自分で作った本が、綴じられた状態でまとまって届くことは、ほとんどおそろしいようなことで、しばらくは、うまく、ねむれませんでした。でも、よかったです。本文紙もいろいろだったり、インクの濃淡もあったりで、ヒロイヨミ社らしい、ゆるくてかるい感じの仕上がりになりました。本が読みたいのに読めない人に読んでもらえたら、いいなあ、と思います。  
 まずは今月10日からの、ナツメ書店での展示「言葉と冊子」で販売いたしますので、どうぞよろしくお願いいたします。


 装訂の仕事のお知らせです。酒井健著『バタイユとアナーキズム  アナーキーな、あまりにアナーキーな』、法政大学出版局から、10月なかばの発売です。装画について、など、くわしく書いてみたい気持ちもあるのですが、今は、言葉がまとまりません……。おちついたら、何かいいたくなるかもしれません。とても、いい本です。くわしい内容はこちらに。



 「ぽかん」の真治彩さんから声をかけていただき、編集工房ノア50周年記念冊子『ノアの50年』に寄稿しました。エッセイと、アンケート「ノアの三冊」、いずれも短いものですが、参加できて、うれしかったです。10月11日、12日には、恵文社一乗寺店でイベントもあるそうです。わたしも、せっかく西のほうにいるので、博多から新幹線にのって、うかがうつもりです。たのしみにしています。


2025年9月18日木曜日

言葉と冊子




 福岡のナツメ書店で、これまでに作った冊子や刷った言葉を展示します。
 いま、新しい本を作っています。『ある日   読書と断片』という本です。前につくったちいさな冊子の『ある日』と同じ形式ですが、仕様がすこし変わります。ページ数も、32ページから162ページに増えます。そんな厚みのある本をヒロイヨミ社が作るなんて、われながら、ふしぎな気がします。ただ、どんな本になるのか、できてみないとわかりません。どきどきしながら制作しています。いまはまだ、本は、あたまのなかです。


ヒロイヨミ社 言葉と冊子  

2025年10月10日(金)−  11月2日(日)
12:00−17:00
close 月・火・祝


1010 19時より「ヒロイヨミ朗読会」を開催します。参加者がそれぞれすきな本のすきな一節を持ち寄り、朗読する会です。

日 時|10月10日(金) 19:00〜 (18:30オープン)
料 金|1,000円 + ワンドリンクオーダー
場 所|ナツメ書店 古賀(311-3101 福岡県古賀市天神1-9-8)
ご予約|ナツメ書店のメール(natumesleep@gmail.com)まで、①お名前 ②お電話番号 ③人数をお知らせください。


 ナツメ書店の西戸崎店へは、三年前にうかがいました。置いてある本がみんな、ひかってみえるような、とても素敵な本屋さんでした。古賀店は、どんなところでしょう。うかがうのを、たのしみにしています。

2025年9月14日日曜日

洋書まつり 2025


 

 洋書まつりのポスターとフライヤーをデザインしました。
 油性マジックと鉛筆と消しゴム(電動)で、積んだ本を横から見た図を描きました。
ポスターを、ちいさな仕事部屋に貼ってみました。イベントの詳細は、こちらに。
 洋書まつりでは、毎年、わくわくするようなアートブックを見つけます。昨年は、書肆とけい草の棚から、クロード・ヴィアラ、ルイーズ・ネヴェルソン、ソニア・ドローネの作品集を買いました。今年も、たのしみにしています。
 仕事部屋には印刷機もありますが、このところは、デザインの仕事で、Macにむかってばかりです。10月の展示のことも、近々、お知らせしたいです。

2025年9月7日日曜日

拾い読み日記 335

 
 古い建物の一室で出版物を作っている人びとがいて、たまたま手伝うことになり、その作業の合間にトイレに立った。個室に入って用を足そうとすると、シャワーヘッドから勢いよく水が出てきてずぶぬれになった。なぜこんなところにシャワーがあるのか。驚きと怒りと寒気でふるえながらも、この理不尽な出来事がじぶんの人生の象徴であるようにも感じられた。今はそんなふうには思わない。夢のなかでそう思っただけだ。
カフカの日記を気まぐれに読む。

 書くにつれて高まる不安。考えられることだ。言葉という言葉は、精霊の手の中で向きを変えられて——こんな風に手が震えるのがいかにも奴等らしい動き方だ——投槍となって話者に戻ってくる。(『カフカ全集 Ⅵ 日記』)

2025年9月5日金曜日

拾い読み日記 334


 モニタを凝視して文字や画像の位置と大きさを微妙に調整しつづけていると、息は浅くなるし肩もこわばる。ベランダに出てみると、思いがけず青空が見えた。西の空と東の空では色がちがっていて、西のほうのシアンには、マゼンタがすこしだけ混ざり、東のほうのシアンには、イエローがわずかに入っている。雲の色も異なっている。西の雲は光をふくんだ乳色で、あまくあかるい夢のような色。東
の雲はおだやかな濃淡のあるライトグレー。いずれも南の一点にむかってうごいている。流されていく。

 テニスの試合を見る人のようにあたまを右に左にしばらく動かし、それから部屋に戻り、 つかれた、とひとりごとをいってぬいぐるみの隣にねころんだ。手をのばして、一冊の詩集を手にした。今みた景色にふさわしい言葉がほしい、と思った。
 詩は読まずにエピグラフだけ読んで、今日の読書はそれでおしまい。

  一冊の本はおおきな共同墓地である
 そこでは大部分の墓石の名が風化して
 もはや判読できない。
         マルセル・プルースト

2025年9月2日火曜日

拾い読み日記 333


 あいまいににじんだ月の下、夜のプールで若者たちが遊ぶたのしそうな声がする。黄色い声と低い声がまざりあう。あんまりたのしそうだから、すこしせつなくなった。できれば永遠にそうやって遊んでいてほしい、と思う。それがむりなら、いつまでもこのたのしい夜のことを、おぼえていてほしい。

 午前中、藍色の絵の具でキーボードをよごした。いくら拭いても藍色は取れなかった。それから、泳ぎに出た。水底の光をみつめながらゆらゆらと泳ぐ。何にも、誰にも所有されないきらめきが、そこにはあった。

 「あのころ僕は自然になろうと思った。」(ハンス・アルプ)
 
 自然になる、とは、自然を模倣することではない。自分が自然であるということ。自分の内部の自然にしたがうことだ。