2024年4月19日金曜日

拾い読み日記 299

 
 桜の木の、天地について。
 桜は地面に近いところから、花から葉にうつっていく。人が木を見あげて、すっかり葉に変わった、と思っても、空に近い部分には、まだ、花が咲いている。だから今朝も、2階のベランダに、花びらが風にのって、ながれてきた。

 花がふってくると思う
 花がふってくるとおもう
 この てのひらにうけとろうとおもう

 八木重吉の詩集を、ひさしぶりにひらいた。みじかい詩だから、あたまをよぎったときと、そんなに、変わらない。それでも、本を手にして、紙をめくり、詩をさがす。すこしのあいだ、文字をながめる。手のひらで、全身で、言葉をもっと、うけとることができればいい、と思う。

 昨日の午後は気圧のせいかめまいがして、横になって瞑想しよう、と思い、目を閉じた。眠ろう、と思うのでなく、瞑想しよう、と思うほうが、すんなり眠れる。
 
 うすももいろの花びらは、ひらひらひるがえったり、ちいさくかがやいたりして、空の青とあそんでいるようでもあった。
 見ているうちに、くらい思いは消えていった。

2024年4月9日火曜日

拾い読み日記 298


 昨日は、散り始めた桜の木のそばで、ビールをのんだ。今日は、強い雨風で、桜の花びらが一枚、また一枚と、ベランダまで飛ばされてくる。桜の季節はそろそろおわりだけれど、欅に続いて銀杏の木も芽吹いて、あたまからうすみどり色のレースをまとったようなすがたに見とれる。

 もやもやとさわがしい気持ちをしずめる言葉を必要として、古本屋で買った、ペーパーバックのエミリ・ディキンスンの詩集を手に取り、開いた。
 ある事情から、この詩集の前の持ち主を知っている。英文学者で、会ったことはないが、その人の本は、読んだことがある。うっすらと親しみを感じている。その人は、この詩集を、どんなふうに読んだのかわからない。だいぶ古びていて、何度もめくられたようだ、ということは、わかる。

 「本の頁に/ほら おまへがのこした指紋がその言葉をきいてゐる」(立原道造「室内」より)

 ページの上で、指と指が、眼差しと眼差しが、言葉と言葉が、交差する。一瞬、そのひとの気配を感じたとき、奇妙にしずかな気持ちになった。

2024年4月4日木曜日

拾い読み日記 297


 毎日窓から眺めている欅の木が芽吹いて、冬の木から春の木に変わった。ほんの一日二日、気を抜いていたら、そうなっていた。枝だけの姿もきりりとしてすきだったが、今、枝は、うすいみどりの若い葉をまとって、やさしげに風にゆれている。
 木の天辺に鳥が来て、とまった。「飼ふならば樹の頂の春の鳥」。隣にいる人が、とつぜんいうので、おどろいて顔を見上げた。『封緘』という句集にある、藤井あかりさんの俳句だった。しばらくして、鳥は、すーいすーいと泳ぐように飛んでいった。

 タハール・ベン・ジェルーン『嘘つきジュネ』を読む。「白く光り輝いている、ジャン・ジュネの声」。読んでいるうちに、聞いたことのないジュネの声を、どこかで聞いたことがあるような気がしてくる。なつかしい、と思う。不思議なことだ。
 
「わたしがブラックパンサーとパレスチナ人から学んだのは、反乱の何たるかをもっとも理解させることができるのは詩的表現だということだ。その表現が曲解されてしまうこともあるだろうし、一種の美学として見られる可能性もある。注意が必要だ。簡単なことじゃない。
 人種主義を、無益で邪悪な蛮行を理性によって告発することで、もし何かをなしうるのであれば、告発されているものはもうとっくに根こそぎ追い払われているはずだ。多くの人間がそうしたのに、それでもまだそれは残ったままじゃないか……」

 この、ジュネの言葉をめぐって、思ったことをMと言い合って、何か、答えが見つかったわけではないが、いくつもの示唆をもらった。

 しばらく前に、銀座の街頭で、ひとり黙ってメッセージを掲げて立つ女性を見かけた。その人は、にぎやかな夕暮れの街で、明らかに、浮いていた。
 まるで一行の詩のように、孤独で、強い、そう思ったのはジュネの言葉を読んだからかもしれなくて、書きながら、この言葉のあやうさを感じる。
 その存在、そのあり方が、強いということ。塞がる胸に入り込んで立つ「一行の詩」が、力を与えてくれている。

2024年4月1日月曜日

拾い読み日記 296

 卓球が上手くなるには、ただやみくもに球を打ち返すだけではだめで、相手の動きを見て、来た球の回転や強さを見極める必要がある。ラケットをどう球に当てるか。角度とタイミング、スイングの速さと強さを、瞬時に判断して打ち返す。そうすべきなのだが、夢中になると、ほとんど何も考えられない。ただ、動くものに反応して身体が動く。犬や猫がボールを追いかけているのと、そう変わらない。つまり、卓球をしていると、あたまばかり使っている自分の動物性が、多少なりともめざめるようだ。勝つことや上手くなることよりも、その、めざめのほうが、自分にとっては大事だ。

 無我夢中である、と同時に、飛んでくるボールによって思いもよらない動きをする(させられている)自分自身のことを、おもしろいとも思う。そして、夢中でありながらも、ボールを打つ直前には、一瞬の思考というものが、確かにある。それは、あたまではなく、身体で、手で、なされているはずだ。

 ISIKAWA TAKUBOKU『ROMAZI NIKKI』を読んでいる。
 読みにくい。しかし、おもしろい。ページに目を落とすと、目が、なじみのない文字列から、逃げたがっているのがわかる。それでも、息をつめてゆっくりと文字を追っていくと、やがて意味が、あらわれる。読むという行為における、あたらしい感覚を、あじわうことができる。書き手が感じていたであろう、書くという行為におけるあたらしさの感覚が、読むものに、ひそやかなかたちで、伝えられる。もし、遅さともどかしさをいとわなければ。

 Yo wa Kodoku wo yorokobu Ningen da. Umarenagara ni site Kozin-syugi no Ningen da. Hito to tomo ni sugosita Zikan wa, iyasikumo, Tatakai de nai kagiri, Yo ni wa Kûkyo na Zikan no yô na Ki ga suru.

 先日、語の用い方が曖昧かつ不正確で、文法的にもまちがいの多い、とてもわかりにくい文章を読んで、おどろきとともに、つよい危機感を感じた。今、読むことと書くことを、これまで以上に自分に課さなければ、と思った。
 これまで、言語に対して、倫理的であることも論理的であることもできずに、ひたすら感覚的であったと思う。言葉と言葉にできないもののあいだで揺れていた。揺れていることそのものが、おもしろかった。これからも、そういう意味で、禁欲的には、たぶんなれない。
 しかし、もっと、誠実であれたら、と思っている。今はまだ、どうしていけばいいのかよくわからないのだが、ただ、その誠実さは、誰にも理解されなくてもいいものだ、ということはわかる。

2024年3月27日水曜日

2024/3/27

 



2024年3月20日水曜日

拾い読み日記 295

 
 テニス部にいく夢をみた。テニスコートに立ってボールを待っているのだが、ラケットがない。しかたがないから、手で打ち返した。痛かったので続かなかった。もっとラケットを買い足すように、と進言して、テニス部を去った。険悪な空気がただよっていた。

 言葉のよい道具になりたい、などと思うことは、不遜だったかもしれない。道具がそんな思いを抱いているなんて、使いづらいに決まっている。考え直すことにする。

 どうも自分には、非人情なところがある。本に対しても、非人情な読み方をやめられない。

 今日のつかのまの読書は、非人情つながりで、『草枕』。それから『小山さんノート』、『文芸研究』から「わが隣人パシェ」(千葉文夫)。
  
 朝は快晴だったのに、みるみるうちに雲が広がり、今にも雨が降り出しそうだ。

2024年3月17日日曜日

拾い読み日記 294


 書きたいと思っていたことも、画面に向かうと消えてしまった。
 言葉を奪われ続けている。しかし、物と手の力によって、書くことはできないだろうか。そう考えて、ひとつのやり方を試してみる。続くかどうか、まだわからない。

 風の強い日だった。
 何冊かの本を手にした。
 その中の一冊から。

 「言葉は人間の道具ではない、むしろ人間が言葉の道具なのだ。個人——個体ではない——とは言語が自らを豊かにするために発明したひとつのからくりにすぎない。」(三浦雅士)

 いま、言葉の、よい道具になるためにはどうすればいいか。言葉は何をもとめているのだろうか。「手あたりばったり」、試してみるほかない。