2026年1月27日火曜日

拾い読み日記 341


 書物的には一年間の日記であるが、現実的には十数年間の「日記」であり、書いた、というよりは、引用した、というのが実感に近い。人が書いたものだけではない。自分が書いたものの引用。だからだろう、自分の本を出した、とはいえ、まったく、晴れがましい思いはない。むしろ疚しい。その疚しさを引き受けて、つぎは、日付のない本を作ってみたい。

 このところ、昼間はひきこもっていたので、昨日は、近くの川辺を散歩した。鳩が歩いていたり、鴨が泳いでいたり、鴉が止まっていたりして、昼の光のなかに、生きものがいる、それをみているだけで、とても幸福になる。それからほかにみたものといったら、紅と白の梅、落ちている団栗、扇状にのびた葉、実の生っている木、沈丁花の蕾。これから開こうとするちいさなもののあつまりを目にして、これは、「予感」そのものだ、と思った。そしてようやく、この倦怠とつかれのほとんどが、冬によるものだ、とわかった。

 ヤン・アンドレアの本を読んでいる。

 そうなのだ。僕はあなたになり代り、あなたのようになりたいので、そこに、その離れ孤島のような場所に、流れ着いてみたい。その場所で、あなたの口から、あなたの頭から、またはどこからやってくるのか分らないそうした言葉の数々が、あふれ出てくるのを待っていたい。(『デュラス、あなたは僕を本当に愛していたのですか』)

 読むことで、デュラスをうしなったヤン・アンドレアのくるしみが、うつってくる。文学が「虚」で生が「実」として、彼はデュラスの本に出会ったときから、虚が実に、実が虚になってしまった人であるのだと思う。それからふたりで生活して、本を作って(「書いて」)、デュラスの言葉と肉体に、ふかく、かかわった人。

 彼の文体、その息づかい、呼吸のリズムに同調してしまうと、この長い濃密な恋文のなかに閉じ込められてしまうような感覚をおぼえるが、もちろんそれは錯覚で、ひとつの恋の果てのなさ、終わりのなさを知ることは、どこにもない場所への扉を指し示されることに似ている。Cet amour-là。

 書かずにはいられなかった人の言葉と呼吸、「声」によって、書くことへみちびかれる。息がくるしいときは、自分の手で、自由に息継ぎできる空間をつくり出す必要があるから。何を書くか、よりも、どこで点を打つか、のほうが、切実に大切なことだって、あるだろう。点はちいさな余白をつくる。ちいさな息をつくための、ちいさな余白を。

2026年1月22日木曜日

拾い読み日記 340

 
 日がしずんで彩度の低いラベンダー色の空に、宝石のかけらのような月がみえて、あまりに綺麗だったので、超越的な存在からの贈りものと思うことにして、すこしのあいだ祈った。「もし君とすれ違ってしまったら世界全体とすれ違うことになる」。昨日みた映画の主人公がいっていた。今日の自分にとっての「君」は、あの月である。月は細ければ細いほど、あやうい気持ちになる。人は際に立っている。

 映画のあと、食事をして、ほろよいで、古本屋に入った。通りすがりの古本屋でたまたま目についた本をぱらぱらめくって、これはどうしても読みたい、と思ったなら、それは遠くから届けられたもの、今届いたばかりのもの、と思って、ただそれを受け取るしかない。

 かくて私たちは、おまえも私も、私からおまえに向って行く言葉、一葉の紙に印刷された燃え立つ言葉に比べてみれば何ものでもないのだ。なぜなら、私はただその言葉を書くためにのみ生きたのだし、その言葉がおまえに宛てられたものだとすれば、おまえはその言葉を聞くだけの力を持ったということで、これからも生きてゆくだろうから。(G.バタイユ『無神学大全 内的体験』出口裕弘訳、現代思潮社


2026年1月21日水曜日

それではない、と死者がいう


 それではない、と死者がいう。焼香をあげて手を合わせる前におりんを鳴らしたときだった。手元を見ると、いくつかのおりんとりん棒がある。では、これか、と別のおりんを鳴らしてみた。このおりんには、この棒がいい、という組み合わせがあるようだった。めんどうくさいな、とすこし思った。ところであなたは、しんでいないのではないですか。たずねると、いや、軀がまだあるから、今だけ、話せるのだという。気配を感じてドアを開けると、不意をつかれて立ちすくむ人がいた。そのまんまるい目と息をのんだときの音をおぼえている。

2026年1月20日火曜日

人の姿は見えなくて、球だけが


 人の姿は見えなくて、球だけが見えた。並木のむこうで、空の青に球の白が、ゆるやかな放物線を描いている。少年から少年へ、球は往き来する。その朝、なぜそんな光景にあれほど感動したのか、といえば、不安だったからだろう。あるいは、幸福を感じていたから? 不安も幸福も、ほとんど同じひとつのことに感じるときがある。「もの」を投げる相手がいること。受け取ってくれること。投げ返してくれること。そこにあるのは「信頼」で、それがこのように何気ない、うつくしいかたちであらわれ、自分のまわりの、「信頼」の放物線を意識させてくれたことに、感謝していた。朝の冷たい空気のなかで、バスを待っていたあいだ。

2026年1月19日月曜日

活版TOKYO


 活版TOKYO2026、ぶじに終了しました。ご来場のみなさま、スタッフのみなさま、どうもありがとうございました。
 イベントに参加するのは2019年のかまくらブックフェスタ以来で、終始、どぎまぎ、あたふたしておりました。それでも、
たくさんの人に会えて、参加させていただき、よかったなあと思います。両隣のブースに旧知の方々がいらして、こころづよかったです。
 活版の魅力がストレートに伝わってくるような、素晴らしい活版作品・活版雑貨が多いなか、ヒロイヨミ社は簡素な冊子ばかりのブースで、いったいこれはなんじゃいな? と思っているにちがいない人々の顔を、たくさん見ました。ですが、手をのばして、一冊一冊ゆっくり見てくださる方も多くいらして、うれしく思いました。

 『あるひ』(とくに「あきふゆ」のほう)をご購入の方々へ、紙の厚みのため、綴じが弱いものがありました。綴じが外れてしまった方は、お手数ですが、あたらしいやり方で綴じなおしますので、ひとまず以下のアドレスまで、ご連絡をいただけますでしょうか。
 
  yamamotonobuko122@yahoo.co.jp 
 
 ご迷惑をおかけして、たいへん申し訳ありません。
 どうぞよろしくお願いいたします。

2026年1月14日水曜日

活版TOKYO 2026 



 活版TOKYOに向けて、小さい『ある日』(2020年/2022年刊)と大きい『ある日』(2025年刊)、それぞれのリミックスバージョンとして、
8ページの『あるひ』を制作しています。「はるなつ」と「あきふゆ」があります。タイトルとクレジットは活版印刷、図版は型押し版画ですので、中身も外側も一点一点異なります。手作業で薄い(たよりない)冊子を作っていると、なつかしいというかなんというか……原点に帰ったような気がします。

 『ある日 読書と断片』『窓の韻』『fumbling』『ほんほん蒸気』3〜5号、『水草』春号のほか、ananas pressの本や、在庫がわずかに残っている本とポストカードも持っていきます。
 活版TOKYOは今度の金曜から開催ですが、わたしの出店は土日だけです。会場は、神保町三井ビルディングとテラススクエア、ふたつにわかれておりまして、わたしはテラススクエア1階の奥のほうにおります。17日と18日、神保町でお待ちしています。

2026年1月13日火曜日

湿った土の匂いのする小屋で、


 湿った土の匂いのする小屋で、詩人の朗読は始まった。聞いている者はわたしひとりだったが、彼はそのことを気に留めてはいなかった。それで、彼はわたしを待っていたのだ、とわかった。どのような詩だったか、すべて忘れてしまった。長い詩だった。耳で聞いても流れていってしまうから、言葉をひとつだけ、拾ってもらったらそれでじゅうぶんだ、と詩人はいった。

 その後、塔のなかにいた。とつぜん無重力の世界に変わる。とても無口な人とつかまりあって空中にうかび、ゆらゆらしているうちにその人は黒いかたまりになってしまった。そのかたまりに、もう手を離してもいいか、とたずねると、まだここにいてほしい、という。

 目が覚めると隣の人と目が合って、今朝も、いい顔で(トラーみたいに)、笑いかけてくれる。夢をたくさんみた、とだけ伝えた。この世界ではない世界で出会ったひとたちのことは、いわなかった。