2025年9月2日火曜日

拾い読み日記 333


 あいまいににじんだ月の下、夜のプールで若者たちが遊ぶたのしそうな声がする。黄色い声と低い声がまざりあう。あんまりたのしそうだから、すこしせつなくなった。できれば永遠にそうやって遊んでいてほしい、と思う。それがむりなら、いつまでもこのたのしい夜のことを、おぼえていてほしい。

 午前中、藍色の絵の具でキーボードをよごした。いくら拭いても藍色は取れなかった。それから、泳ぎに出た。水底の光をみつめながらゆらゆらと泳ぐ。何にも、誰にも所有されないきらめきが、そこにはあった。

 「あのころ僕は自然になろうと思った。」(ハンス・アルプ)
 
 自然になる、とは、自然を模倣することではない。自分が自然であるということ。自分の内部の自然にしたがうことだ。

2025年8月31日日曜日

拾い読み日記 332


 こころのなかにわだかまるものがあるのだが、それはことばになろうとしてなれない、想いのかたまりであるらしい。そのためにからだも重く感じるが、このわだかまりはわるいものではないのだし、すぐに外に出そうとしたら、まちがえる気がする。どうしてだか、そんな気がする。だから、しばらくは、かかえてすごそうと思う。

 ポスターの入稿準備とフライヤーのラフ制作をすすめる。なかなかすすまない。部屋のなかにさまざまなものが散らばっている。線とか文字とかかたちとか紙とか。そのなかのひとつをひろいあげて、読んだ。

 コツプに一ぱいの海がある
 娘さんたちが 泳いでゐる
 潮風だの 雲だの 扇子
 驚くことは止ることである

 4年前の8月につくった、二つ折りの「ヒロイヨミ」。立原道造の一篇の詩だけをのせた。

 一昨日、バスのなかから見上げた空が、とてもうつくしかった。こまかいうろこ雲が翼のかたちをなしていて、金色のひかりをあびて、空の果てへとむかうおおきな鳥を、まぼろしにみた。ちょうど、「There is a light that never goes out」を、きいていたときだった。

2025年8月22日金曜日

拾い読み日記 331


 受験の夢をみた。国語の試験で、ぜんぜんわからなくて、あせった。紙をめくると草書が出てきて、読めない!と、あたまが真っ白になった。
 どうして今ごろそんな夢をみたのか、といえば、このあいだ卓球の試合の合間に、チームメイトのAさんと、大学受験の話をしたからだろう。Aさんがいった。「コンノさんは受験なんて遠いことでしょうけど、ぼくはわりと最近のことですから」。Aさんは大学院生で、23歳くらい。おまえだって気付いたら50過ぎになってるからな、と思ったけれど、いわなかったし、べつに、むかっときたわけではない。35年前のことを、そんなに遠いことだと思っていない自分に、気がついたのだった。
 
 きょうが昨日になるのが
 ね ふしぎでしょう

 (野見山暁治『セルフィッシュ』文・田中小実昌)

 『セルフィッシュ』を開くと、いつも、のびのびした気持ちになる。明日がきょうに、きょうが昨日になることを、いつまでもふしぎに思っていてもいいし、35年前を遠いことに感じなくても、かまわない。表紙が焼けて、しみだらけになった本。それも模様みたいでわるくない。「時間」をめぐる本だから、ちょうどいい。

2025年8月16日土曜日

拾い読み日記 330

 
 朝、窓辺で、母親とプールに向かう子どもを見かける。浮き輪をつけて歩いている。すこし跳ねている。もう水の中にいるみたいだ。Mを呼んで、いっしょに眺める。彼のこころの、きらきらしたものを分けてもらった。これから、あの少年のように、たのしいことを、ものすごくたのしみにして、いきていこうと思った。

 ポスターのラフをつくったり、校正刷りを読んだりして、読書はほとんどできないが、校正刷りを集中して読んでいて、こころが動くので、満たされない感じはない。
 
 いそがしくなるまえにレオ・レオーニ展とルイジ・ギッリ展にいけて、よかった。

 『レオ・レオーニと仲間たち』には、書き留めておきたいことばがたくさん。「お話とは、個人的なものも含めて、逃げないようにしっかりとつかまえておくべきものなんです。そうしないと、しまいには何も残りません。」

 レオ・レオーニの絵本の原画は、一枚一枚が、手でつくりあげられた世界、という感じで、みごたえがあった。手のあと、指のあとがあちこちにのこされていて、つくることがたのしくてたまらない、という声を、耳元で聞いたような。

2025年8月7日木曜日

拾い読み日記 329


 この夏いちばん暑い日に、術後の検診で病院へ。採血を待っているとき、外科の診察室から出てくる主治医を見かけた。だるそうな高校生のような歩き方で、不安になる。いいおとななのに、職場でこんなふうに無防備に歩いていて、この人は、だいじょうぶなのだろうか。こんなてれてれ歩く人に、自分の身体をあずけて、よかったのか。
 とはいうものの、術後はとくに問題もなく、診察も、あっさり終わった。処置をほどこされたからだの内部や取りだされた胆嚢の写真を見せられ、正視できないものもあったが、それらは手術直後につきそいのMが見せられたものと同じものらしく、Mに、もうしわけない気がした。
 「おわりです」といわれ、お礼をいって診察室を出た。
 治療がおわったうれしさよりも、医師の覇気のなさが心配になった。入院中、病室に様子を見に来てくれたときは、まだ生気があった。目も合わせてくれたし、たよりになる感じだった。今かんがえると、激務のなか、疲れきってはいても、真摯に対応してくれたのだと思う。
 
 病気になるのは、よくあることだし、死ぬことは、必然的なことである以上、医者や病院について、もっと知りたいと思うことは、無駄ではないだろう。そこで、朝比奈秋の『受け手のいない祈り』を、読んでみることにした。カバーの医師の姿は、著者自身だろうか。青と黒の色づかいが、不穏である。
 この人が、ちょうど芥川賞を受賞した日に、たまたま居酒屋にいて、テレビでインタビューを見ていた。淡々と話す様子に、どこか、ふつうの人間とはちがうものを感じて、目が離せなかったことをおぼえている。うつくしく枯れた、植物のような人だ、と思った。

 そういえば、最後の診察で、主治医が一度だけ、こちらの顔を見た。はげしい運動をしてもだいじょうぶか、とたずねたときだった。卓球なんですけど。
 目が合った。血走った目だけれど、いい目だ。この人のなかにひそむ、何かとてもまっすぐな、はりつめたものが伝わってきて、はっとした。試合のときに、正面に立つ人の目に、よく似ていた。

2025年7月29日火曜日

拾い読み日記 328

 
 今日もプールはにぎわっていて、たのしげな声にこころがあかるむ。日がしずむころ、ようやく、部屋から外へ出た。北の空にはコーラルピンクの雲がたなびき、西の空では三日月がやさしくかがやいていた。金色でも銀色でもない、生成り色の光。やわらかできよやかな光。

 ポール・オースター『オラクル・ナイト』を読み終えた。

 人間が人間に対してそれをやったんだ、これっぽっちも疚(やま)しく思わずに。それが人類の終わりだったんだよ、ミスター高級靴さん。神が人類から目をそむけて、永久に世界から去ったんだ。そして俺はそこにいて、自分の目で見たんだ。

 小説の中の小説で語られた言葉は、真実であり、現実だった。力をうばわれ言葉をうしなっていた。今は、力をあたえてくれるものを必要としていて、そのひとつは、「本」であり、こういうときに、なにより、本とは、本以上のものだ、と感じる。

2025年7月18日金曜日

拾い読み日記 327


 「コンノさんの石は、まあまあですね」と、チャーミングな看護師さんがいった。すごく大きい石の人もいるんですよ、と。
 出てきた石は、10ミリ弱のものがふたつだった。このような塊がからだのなかで作られたなんて、しんじがたい。からだのなかでできたものが目の前にあることも、ふしぎでしかたがない。捨てたいけれど、もったいないような気がして、捨てないでおく。ときどきケースから出して、手のひらの上でころがしている。

 石は内蔵だ
 ブラヴォー,  ブラヴォー
 石は空気の幹だ
 石は水の枝だ

 (ハンス・アルプ「家族の石」)

 このところ、アルプの作品集を、たびたび繙いている。とりわけ彫刻作品に惹かれ、眺めていると、よい気持ちになるのはどうしてだろうか、とかんがえている。からだの奥にひそんでいるなめらかな芯を、なでられて、かたどられた、みたいだから? いびつで、きみょうで、のびやかなからだへの、あこがれがつのる。
 作品集を閉じたあと、水彩絵の具と筆で、てきとうにかたちを描いた。何のためでもなく、ただ、やってみたいから、そうした。