2025年12月18日木曜日

金魚と少年


 電車の中吊りで、
小林徳三郎という名前を知った。展覧会の広告に使われているのは、「金魚を見る子供」という作品で、ポスターのデザインも、作品の色調に合わせて、あたたかな色合いでまとめられている。黄色い部屋で、短髪の少年が、組んだ腕に顎をのせて、赤い金魚を眺めている。彼と、緑がかったガラス鉢のなかにいるちいさないきものは、何となく、惹かれあっているようにも見えた。絵のなかに、「物語」があった。触れられないものへのあこがれ、はかない出逢いのきらめき、異なる存在への恋。それは「記憶」でもあるだろう。ひとめでこの絵をすきになった。

 しずかな展覧会だった。カシャカシャと、まがいものの音が聞こえないことに、ほっとしていた。携帯で絵を撮るひとびとを見ないですむことも、ありがたかった。
 「金魚を見る子供」の前に立って、束の間のときを過ごすと、一瞬、かるい抱擁を受けたときのように、ふいに身体がほどけるのを感じる。どうしてだか、ちかごろ、とてもつかれていた。絵という「もの」に、そうした身体の状態を、「みられる」、絵の前にいて、こころとからだの、すさんだ部分、こわばった部分に気付く。それはときどき起こることだ。

 見たかった絵を見ても、見た、という実感も、満足感もなかった。もっと、見たい、という気持ちだけが残って、それは、金魚を見つめる少年の気持ちに通じるものなのかどうか、わからないけれど、見たのに、見ることができなかった、という不全感ともどかしさから、また書くことをはじめてみようか、と思った。