2025年12月31日水曜日

拾い読み日記 338


 読めない気がする、と読み始めて、しばらく読み進めても、ぜんぶは読めない気がする、と思いながら、本を開いたり閉じたりを、くる日もくる日もくりかえして、なかばを過ぎたころから、おもしろいのかどうかわからないのに読むのをやめられないことがだんだんおもしろくなってきて、おわりのあたりでは、いったいどのようにこの長すぎる「悪夢」がおわるのか、見届けたい気持ちも大きくなり、ようやく、読み終えた。カズオ・イシグロ『充たされざる者』(古賀林幸訳)、文庫版で940ページ。今年読んだ本のなかで、もっとも長い時間をかけて読んだ小説だ。

 連れまわされて、期待されて、責められて、何もかもが曖昧で、思いどおりにいかないままにプレッシャーだけが高まっていく、いつまでたってもどこにもたどり着けない、そんな小説だった。だから読み終えても、終わった気がしない。「さまよえる悪夢」そのもののような小説。

 一人称なのにとつぜん目の前にいる人の心情や記憶まで自分のことのように語り手が語り出したときには、気持ちわるいからやめてほしい、とは思ったが、それは現実の世界でもよくあることなのだろう。つねに他人を意識して、他人の言葉を追っていたら、他人の感情と自分の感情がまざりあって、区別がつかなくなる。だからこんなにつかれてしまう。

 それでも、この小説を読むことで、日々感じるネガティブな思い、不安や後悔や無力感を、つかのま、忘れることができた。その存在を、というよりは、その重さを、忘れる、というのか。「小説の登場人物は、その虚構性ゆえに、われわれの内がわや周囲にある虚構をいわば吸い取ることができる。小説は、あらゆるインクを呼び込む吸取紙なのだ。」(ミシェル・ビュトール) こころの中にうずまく言葉が、どれもこれも虚構なのだとしたら。そう思うと、らくになる。

 「わたし」が語っていたのは、「彼」のことであり、「彼」はつまり「わたし」でもあった。芸術を崇めるあまり、それに囚われてくるしむ「彼」(ら)の嘆きは、「彼」(ら)だけのものではない。「そもそもわたしはなぜ、音楽や美術や文化といった崇高なものの近くに、この不器用な手を置こうなどとしたのか?」。とりかえしのつかない大きな失敗をしてしまった「彼」は、泣きながら、妻にむかって、わたしを捨ててくれ、とくりかえす。捨ててくれ。捨ててくれ。遠ざかる女(たち)。すすり泣く男(たち)。しかし、そこからの展開がよかった。調子がよすぎてあっけにとられた。日差しがあかるくて、隣人はやさしくて、朝食のビュッフェは美味しそうで。悪い夢はさんざんさまよったあげく、よい夢に姿を変えたのだ。

 何年前だったか、大晦日に、くまのプーとコブタの会話を読んで、心打たれたことがあった。

 「プー、きみ、朝おきたときね、まず第一に、どんなこと、かんがえる?」
 「けさのごはんは、なににしよ? ってことだな。」と、プーがいいました。「コブタ、きみは、どんなこと?」
 「ぼくはね、きょうは、どんなすばらしいことがあるかな、ってことだよ。」
 プーは、かんがえぶかげにうなずきました。
 「つまり、おんなじことだね。」と、プーはいいました。
 (A.A.ミルン『クマのプーさん』石井桃子訳)

 自分で自分のために、いきやすい虚構をつくる。来年の抱負は、と聞かれたら、そうこたえたいけれど、伝わりづらいだろうから、シンプルに、本をたくさん読みたい、とこたえることにしよう。不器用な手で本に触れて、ときには何か、物をつくろうと、するだろう。


2025年12月28日日曜日

New Year Greetings 2026

 
 年明けの1月3日から盛岡の書肆みず盛りで開催されるNew Year Greetingsに参加します。お近くの方、ぜひ足をお運びいただけたら幸いです。



2025年12月21日日曜日

活版TOKYO 2026


 来月、神保町で開催される活版TOKYOに参加します。会期は3日間ですが、ヒロイヨミ社の出店は、17日と18日、土日の2日間です。
(わたしの記憶が確かなら)10年ぶりに参加させていただきます。どうぞよろしくお願いします。最新情報は、活版TOKYOのInstagramをご覧ください。

活版TOKYO2026
日本の活版・世界の活版 - Letterpress in Japan and Beyond -

◎ 会期と時間
2026年1月16日(金)  12:00〜19:00
17日(土) - 18日(日)  10:00〜17:00

◎会場(2会場)
神保町三井ビルディング
テラススクエア

◎アクセス
都営新宿線/三田線/東京メトロ半蔵門線「神保町」駅
A9出口より 徒歩 1分





2025年12月20日土曜日

にぶやさん


  一昨日は宇野邦一さんの、昨日は丹生谷貴志さんの「語り」を聞いた。トーク、という軽い響きの言葉はおそらくふさわしくない。数十年にわたる読書と思考が彼らの肉体の一部になり、その肉体から繰り出される語りには、それぞれに、聞く者をつよく引き込む力があって、あたまも身体も、ついていけなかった。昨夜の帰り、電車を乗り過ごし、今日は朝から寝込んでいた。

 昨日、語りを聞いたあとに言葉を交わしたひとびとの声があたまの中で反響し、その顔や身体はキュビスムの絵みたいなかたちであらわれては消え、またあらわれ、おさまる気配がないので、この文を書くことにした。人と会うこと、人のなかに出ていくことは、自分にとって、たのしいことであり、同時に、負担の大きいことでもある。とても疲れている。そして、とても幸運だったと思う。あの場所にいられてよかった。誘ってくださったAさんに感謝している。

 宇野さんの会で編集者のAさんの姿を見かけて声をかけた。20代のときに酒席で迷惑をかけた(酒癖がわるかった)ことをとてもはずかしく思っているから、いつもの自分だったら気がつかないふりをしているはずだが、昨日、Mが、Aさんが編集した『丹生谷貴志コレクション』を買ってうれしそうに読んでいたので、そのせいかもしれない。そう、きっと「本」のせいだ。余談だが(「余談」、昨日の語りで頻出したことば)、丹生谷貴志をこよなく愛する古本屋のNさんとMは、丹生谷さんのことを親しみをこめて「ニブタン」という。今、その「タン」は「谷」がなまったものか、と思いついたのだが、それはどうでもよくて、丹生谷貴志という著者には、人を憧れさせる、あるいは特別な愛着を感じさせる(会に誘ったKさんは丹生谷さんが「大好き」だという)、何かがあるのだろう、と思う。それは、何なのだろう。

 一昨日、Aさんと一緒にいた、細身の、穏やかそうな男性が丹生谷さんだと知り、興奮して、話しかけてしまった。昔、何度か原稿をお願いしたことがありますと。電話の思い出。呼び出し音が、やけに長かった。いないのか、と思い受話器を置こうとすると、「はい」とちいさな声がした。生きていない人のようだった。書評の依頼は、いつでも気軽に引き受けてくれた。奇妙なくらい気軽だった。家の中の音がまったくしないので、孤島にいる人みたい、と感じた。

 わたしにとっての「丹生谷さん」は、声だけの人(しかもちょっと不思議な人)だったから、その肉体を前にして、昂揚したのか、といえばそれもあるだろうが、何より、丹生谷貴志という著者に、その文体に、生身の身体がそぐわないせいだと思うのだが、どうなのだろう。

 ところで先ほど、CiNiiで丹生谷貴志を「ニユウダニキシ」とするおそろしいまちがいを見かけた。これは誰かの(妖精の?)いたずらなのだろうか。今はあたまがぼうっとしているから、どうでもいいことしか書けない。まだ、昨日の語りのなかに、巻き込まれているようだ。読むことも書くことも、このままではいけない、と思っている今の自分にとって、たいへんだいじなこと、手がかりになるようなことを聞いたと思うのだが、今のこのとっちらかった状態では、書けないし、書きたくない。


追記 勢いで書いたのではずかしくなり一度消したが、昨日届いたKさんからの手紙に、なんで消したの、と書いてあったことと、そのあとのNさんとMとの忘年会で「ニブタン」の話でもりあがったこともあって(?)、残すことにした 続きは、書けたら書きたい

2025年12月18日木曜日

金魚と少年


 電車の中吊りで、
小林徳三郎という名前を知った。展覧会の広告に使われているのは、「金魚を見る子供」という作品で、ポスターのデザインも、作品の色調に合わせて、あたたかな色合いでまとめられている。黄色い部屋で、短髪の少年が、組んだ腕に顎をのせて、赤い金魚を眺めている。彼と、緑がかったガラス鉢のなかにいるちいさないきものは、何となく、惹かれあっているようにも見えた。絵のなかに、「物語」があった。触れられないものへのあこがれ、はかない出逢いのきらめき、異なる存在への恋。それは「記憶」でもあるだろう。ひとめでこの絵をすきになった。

 しずかな展覧会だった。カシャカシャと、まがいものの音が聞こえないことに、ほっとしていた。
 「金魚を見る子供」の前に立って、束の間のときを過ごすと、一瞬、かるい抱擁を受けたときのように、ふいに身体がほどけるのを感じる。どうしてだか、ちかごろ、とてもつかれていた。絵という「もの」に、そうした身体の状態を、「みられる」、絵の前にいて、こころとからだの、すさんだ部分、こわばった部分に気付く。それはときどき起こることだ。

 見たかった絵を見ても、見た、という実感も、満足感もなかった。もっと、見たい、という気持ちだけが残って、それは、金魚を見つめる少年の気持ちに通じるものなのかどうか、わからないけれど、見たのに、見ることができなかった、という不全感ともどかしさから、また書くことをはじめてみようか、と思った。

2025年12月16日火曜日

六花

 
 宮下香代さんの「六花」展、名古屋のkamiya bakeryにて開催中です。12月27日まで。雪をイメージした作品と、雪のことばをあつめた『六花』、ぜひご覧いただけたら幸いです。


2025年12月13日土曜日

装訂について


 法政大学出版局のnoteに、斉藤毅さんの著書『石原吉郎の詩の構造』の装訂についてのエッセイを寄せました。