この夏いちばん暑い日に、術後の検診で病院へ。採血を待っているとき、外科の診察室から出てくる主治医を見かけた。だるそうな高校生のような歩き方で、不安になる。いいおとななのに、職場でこんなふうに無防備に歩いていて、この人は、だいじょうぶなのだろうか。こんなてれてれ歩く人に、自分の身体をあずけて、よかったのか。
とはいうものの、術後はとくに問題もなく、診察も、あっさり終わった。処置をほどこされたからだの内部や取りだされた胆嚢の写真を見せられ、正視できないものもあったが、それらは手術直後につきそいのMが見せられたものと同じものらしく、Mに、もうしわけない気がした。
「おわりです」といわれ、お礼をいって診察室を出た。
治療がおわったうれしさよりも、医師の覇気のなさが心配になった。入院中、病室に様子を見に来てくれたときは、まだ生気があった。目も合わせてくれたし、たよりになる感じだった。今かんがえると、激務のなか、疲れきってはいても、真摯に対応してくれたのだと思う。
病気になるのは、よくあることだし、死ぬことは、必然的なことである以上、医者や病院について、もっと知りたいと思うことは、無駄ではないだろう。そこで、朝比奈秋の『受け手のいない祈り』を、読んでみることにした。カバーの医師の姿は、著者自身だろうか。青と黒の色づかいが、不穏である。
この人が、ちょうど芥川賞を受賞した日に、たまたま居酒屋にいて、テレビでインタビューを見ていた。淡々と話す様子に、どこか、ふつうの人間とはちがうものを感じて、目が離せなかったことをおぼえている。うつくしく枯れた、植物のような人だ、と思った。
そういえば、最後の診察で、主治医が一度だけ、こちらの顔を見た。はげしい運動をしてもだいじょうぶか、とたずねたときだった。卓球なんですけど。
目が合った。血走った目だけれど、いい目だ。この人のなかにひそむ、何かとてもまっすぐな、はりつめたものが伝わってきて、はっとした。試合のときに、正面に立つ人の目に、よく似ていた。