2024年12月30日月曜日

monjiro



2024年12月29日日曜日

拾い読み日記 313

 
 一年が終わりにむかう、このごろの街の雰囲気が、きらいではない。終わりがあって、はじまりがある。自分もあたらしくなって、また何かをはじめられそうな気がする。

 先日、一年ぶりに演劇を見にいった。永井愛作「こんばんは、父さん」。廃業した町の工場を舞台にした、切羽詰まった父と息子と借金取りのやりとりは、すばらしくおもしろくて、濃密で、見て、よかった。
 永井愛さんのつくる劇には、人間に、人間らしくあってほしい、という願いがこめられている気がする。社会のなかで生きる人間には、ままならないことも、どうにもできないこともあるけれど、自分の心身と、自分の人生を、ないがしろにしない気持ちがあれば、そのうち、事態は変わっていく。光がさしてくる瞬間が、きっとおとずれる。永井さんの舞台を見にいくようになって、しだいに、そんなふうに思うようになった。本と同じように、演劇のことばも、ゆっくりと届くものなのだと思う。

 劇が終わって、暗くなって、ぱっとライトがついた瞬間、魔法がとけたような、さみしい気持ちになった。もっとあの3人を見ていたかったのに、いなくなってしまった。
 かわりにあらわれた3人の役者は、それぞれ、役の人生を生ききって、ほんとうにいい顔をしていた。
 「いい人生を」。またひとつ、わすれられない言葉がふえた。

 サイコロ状の木片に、ランダムにひらがなが貼ってある「もんじろう」というゲームを買った。ころころ転がして、言葉を組み合わせてあそんでいると、夢中になる。昨日は、食後に、Mといっしょにあそんだ。1分以内に、どれだけひらがな3文字以上の単語がつくれるか、というあそびである。目に入った「こ」と「う」と「ん」とで、咄嗟に単語をつくったら、ふたりとも笑いがとまらなくなり、それしかつくれなかった。無念だった。なぜ、もうひとつ「う」を見つけて、「こううん」にしなかったのだろう。それに、あとからかんがえると、「うこん」だって、よかったのだ。

 リディア・デイヴィス『話の終わり』を読みすすめる。とてもおもしろいのだが、おそらく昨日よんだ一節のせいで、明け方、とても怖い夢をみた。

2024年12月23日月曜日

拾い読み日記 312

 
 また 川を見に
 行こう と考える
 いま それ以上の ことを
 考えることができない
 血のことを 考えるよりも
 川のことを考える
 ほうがよい
 日本には ついに
 思想らしい思想は 生れないのか、
 と悲しみながら
 風の日の しめ切った あつい
 電車に乗っている。
 きみは悲劇的な
 死者たちばかりを愛している。 

 飯島耕一「川と河」より

 どうしてこの詩のこの一節に惹かれたのかはわからないが、書きうつしておきたいと思った。声に出して読んでみた。一字空きと、改行のしかたが、今の気持ちに、合っていたのかもしれない。詩を読むことは、つかのま、ひとの呼吸で、いきることにひとしいと思う。

 突然、米津玄師のことが気になって、「さよーならまたいつか!」のMVをみた。これまでほとんど興味がなかったのに、何度かみているうちに、表情や声や仕草に、じぶんでも不思議なくらいひきつけられた。こんなに赤い上下が似合うひとが、ほかにいるだろうか?
 「100年先も憶えてるかな 知らねえけれど さよーならまたいつか!」。
 知らねえけれど、という言葉が、みょうに、いいのだった。解放感がある。

 一昨日から、ネットでニュースをみるのをやめた。Xをみるのもやめた。
 そのかわりに、新聞をとりはじめた。新聞が、朝と、午後に届くことの、ありがたさ。紙をめくって、読む。読み終えて、紙をたたむ。そのよさを、ずうっと忘れていた。

2024年12月5日木曜日

近況


 十田撓子さんの詩集『あさつなぎ』刊行記念展にご来場のみなさま、ありがとうございました。本は、ひきつづき、Titleにありますので、ぜひ、見ていただけたらうれしいです。
 2階の窓から入る光で詩集がかがやいていたようすを、ときおり思いだしています。
 秋田市の喫茶店「交点」では、3回にわたって、朗読とトークのイベントが開催されています。

 今は、造形作家の宮下香代さんと、本をつくっています。香代さんの作品にあわせて、詩、俳句、随筆、歌をえらび、組んでみました。
 一年ぶりに印刷機もうごかす予定です。うまく刷れますように……。
 くわしくは、あらためてお知らせします。

 それから、明日発売の『群像』1月号に、エッセイ「放たれたページ」を寄稿しました。


 日記が書けなくなったので、書くということを、とても新鮮に感じました。あたまにうかんだことを言葉にして、それを読んでみて、その言葉からまたあらたに感じたことを言葉にして、それをくりかえして、いったりきたりでふらふらしながら、ほそい道のようなものを見つけて、あるいていく。そんなふうに、書きました。

 どうして日記が書けなくなったのか、たぶん、もろもろのしごとで心身をつかいはたしたから、というのもあると思いますが、書いたらすぐに公開、という速さも、自分に合っていないのかもしれない、と思うようになりました。速さ、だけでなく、かんたんさ、ということにも、多少のうたがいがあります。(といいながら、書きたくなったら、また書きます。)

 つくるだけでなく、つくったものを、どんなふうに手にしてもらいたいのか、どんなふうに読んでもらいたいのか、そこまで、できるだけかんがえて、活動をつづけていこうと思います。だいじなのは、自由な気持ちでいられるかどうか。自分のリズムとやりかたを、これからも、さぐりながら。
 
 12月になったのに、まだあまり寒くなくて、ふしぎな冬です。風に舞う葉や、路上の落ち葉がうつくしいので、ぼうっと眺めたりしています。