2024年3月1日金曜日

拾い読み日記 293

 
 野球場に椋鳥がいた。とっとっとっとっと、歩く姿が愛らしい。近くで鳴かれるとうるさいし、柿の実にくらいついていた記憶もなまなましいので、あまりすきな鳥ではないけれど、こうして、誰もいない野球場で歩きまわっているのを見ると、遊びたいのに取りのこされた子どものようで、愁いがある。
 
 疲れがたまっていたのか、帰ってきてコーヒーを淹れてのんだところで、力尽きた。かすかに、寒気も感じた。天気のせいでもあったかもしれない。小一時間眠って、目が覚めても、起きあがる気力がない。ふとんのなかで、スマホを見たり、音楽を聴いたりして過ごす。疲れているときに聞きたくなるのは、やわらかな声。しずかな声。天上から届いたような声。「クレヨン・エンジェルの歌はすこし調子がくるってる、でもそれは、けしてわたしのせいじゃない」。

 いくつかの歌を耳に流し込み、それでもまだ起き上がれなくて、暗い部屋で途方にくれていたところ、ぽす、というちいさな音がして、何かと思えばふとんにぬいぐるみが落ちてきた音だった。こんなふうな起こされ方は、はじめてだ。ありがとう、といって寝床からようやく脱出できた。

 沼田真佑『幻日/木山の話』を読み終えた。
 回想であったり、妄想であったり、幻想であったり、そのつど、わきあがる想いに身をゆだね、言葉で書かれた、というよりは、言葉と書かれた、といったほうがいいかもしれない文章を辿ることは、つまずき、惑うことだった。まるで書くように読んでいた、と思う。
 本を読むということは、奪われ続ける自分の時間とこころを、取り戻すような営みなのか、と思った。作業と作業のあいまに、本を開いて、読むこと、少しでいい、切れ切れでもいい、それができていれば、こころの底にある見えないうつわに水がそそがれ、満たされていくようなよろこびを、感じることができる。

(まだまだ)
 もっと何か体験が、恥が、と、人生というものの、底知れぬ自由が恐ろしかった。ただ、こうは思うようになっていた。世の中に信用するに足るものが何もない以上、せめては自分が生きて、目の当たりにする現実を現実と信じ、これを書き残すことが、あるいは務めなのかもしれないと考えはじめていた。(「早春」)

 本から顔をあげて、ときどき、木を見た。このところ、木を見て、木のかたちを確かめることで、何かを保っていた。この「木山」という男にも、そういう性質があるらしく、ときどきは、彼の目を借りて、見ているようでもあった。