2021年9月11日土曜日

拾い読み日記 259

 
 おととい、二度目のワクチンを打って、昨日はまる一日ねていた。37.9℃の熱が出て、解熱剤をのんだら、ほどなくして熱は下がり、でもだるいので起き上がる気になれず、ふとんでごろごろしていた。ひまなのでスマホでくりかえしニュースをみたり、何度も熱をはかったりした。本はほとんど読めなくて、文庫本をあれこれ枕元につみあげただけだった。

 今朝は体調もよく、お腹がすいていたので、夫と駅の近くのパン屋さんに出かけた。一日ねこんだあとでは、すべてのものがかがやいてみえる。まるで何日も閉じこもっていたみたいだ。金木犀のにおいに、ますます気持ちがもりあがる。あの花、きれいだね。いいにおいだね。あの人、こないだも見たよ。あのラーメン屋、またいきたいね。脈絡なく思いついたことばがすべて口からもれてでてしまって、とまらなかった。
 こないだもいた「あの人」は、年配の女性で、先月だったろうか、自転車にのって「夏の思い出」をいい声で歌っていたのだった。今日も、同じ歌を歌いながら、自転車でさあっと走りすぎていった。夏が終わっても、夏の歌を歌うんだ、と思った。やっぱり、きれいな声だった。
 
 パン屋のカフェで朝食をすませたあと、本屋さんへいった。さっきよんだ朝刊に書評がのっていた小林エリカ『最後の挨拶』と文庫本を2冊買う。午前中に本屋にいくと、あれもこれもほしくなる。

 躁でも鬱でもない、おちついた、おだやかな気持ちで、本をよんだり、ものをかんがえたり、放心したりする時間を持ちたいと思う。これがなかなかむずかしいのだけれど。
 窓のそとの木を見ながら、インターネットは、人を幸福にしたのだろうか、とかんがえた。いや、正確には、かんがえてはいない。そういうことばが、あたまにうかんだ。

 このあいだ、たのしみにしていた馬場のぼる展に出かけた。会場にはモノクロの映像が流れていて、ちいさな町の本屋さんで『11ぴきのねこ』にサインする馬場先生を見た。ひとりひとりに、サインと、その横に、ねこの絵も描いてあげていた。はにかんでもじもじしつつもうれしそうな50年ほど前のこどもたちのようすをみていると、一瞬、じいんとした。痩せて髪がさらりとした先生は、無口で、やさしそうで、照れているような感じもした。なんだか、色っぽい人だな、と思った。
 馬場先生、というのは夫のいいかたで、いつのまにかうつってしまった。そうするともう、「馬場さん」とはよべないし、書けない。