2017年12月29日金曜日

一月の冊子をつくる




今年も、あと、3日になりました。
今朝は庭に霜柱が立っていました。さくっと踏んでみると、朝日があたってきらきら輝いて、とても綺麗でした。寒い日が続いていますが、風邪もひかずに元気ですごしています。

年があけて一月に、銅版画家の森雅代さんと、ワークショップをやります。「八月の冊子をつくる」に続いて、2回目です。前回はエッチングでつくりましたが、今回は、アクアチント+エッチングで、冬の版画をつくります。詩は、季節にあわせてわたしが選んで刷ったものですが、事前に下絵を準備してきたい方には、あらかじめお知らせします。同じ詩から、さまざまな冊子ができるのが、ほんとうにおもしろいです。言葉とむかいあって手を動かす静かな時間は、なんだかとても、よいものだと思います。
版画は、冊子に貼付するものだけでなく、紙やインクを変えて、何枚か刷ることもできます。版画のたのしさ、不思議さを、一緒に体験できたらいいなと思います。
銅版画がすきな方、やってみたい方、ぜひご参加いただけたらうれしいです。どうぞよろしくお願いします。

図版は、森雅代+ヒロイヨミ社『冬の木』(2011年制作)より、森雅代さんによる「ユリノキ」です

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一月の冊子をつくる

ヒロイヨミ社が活版で刷った一篇の詩にあわせて、アクアチント+エッチングで版画をつくり、それを糸綴じの冊子に仕立てます。

・日時=1月20日(土)、21日(日) 14時〜(3時間程度)
・参加費=3000円
・定員=各回4名
・場所=森雅代銅版画教室
 豊島区南池袋1-13-15 アルファシティ池袋206号(池袋駅より徒歩6分ほど)
・申し込み/問い合わせ=山元伸子(ヒロイヨミ社)までメールをお送りください。


2017年12月22日金曜日

拾い読み日記 9



 12月22日。昨日は家から出なかった。清水徹『ヴァレリー 知性と感性の相剋』を読み終えた。今はあたまがうまく働かなくて、要約ができない。要約は苦手だ。最後の恋愛の終わり方に胸が痛んだ。激しい恋はいつだって痛いものだが、それがなければ、ヴァレリーはヴァレリーではなかった。

「だから、生きようとする意志よりも、理解する能力よりも、このいまいましい——C〔心情〕の奴のほうが強いのである。╱《心情》——これは不適切な呼び方だ。わたしは——すくなくとも、この恐るべき共鳴装置に、適切な名前を見つけたかった。」

 ノート(「カイエ」)にそう書きつけて、二ヶ月後にヴァレリーは逝ってしまう。
 3年前、『テスト氏』を手にしたとき、ひかれた言葉がある。「彼は、彼だけが織ったり、断ったり、つくろったり出来る網の目のなかに、たえず人を迷いこませてしまうのです」。きっと、誰かのことを思い浮かべていたのだろうが、誰のことだかもう忘れた。まわりには、知性と感性がとっても豊かな人が多い気がする。恋でなくても迷いこんでしまうこともある。
 
 今日はおそるおそる出かけてみた。足は少し痛むが、だいじょうぶみたいだ。駅前の喫茶店でガストン・バシュラール『空間の詩学』を少しだけ読んだ。  

「共鳴においてわれわれは詩をききとり、反響においてわれわれは詩をかたり、詩はわれわれのものとなる。反響は存在を反転させる。詩人の存在がまるでわれわれの存在のようにおもえる。」
 
 今年の仕事はあとひとつ。それが終わったら年賀状を刷ろうと思う。冬至なので柚子を一個買った。
 

2017年12月20日水曜日

拾い読み日記 8



 12月20日。駅の階段で足を踏み外して転倒した。激しい痛みでしばらく動けなかった。いくはずだった場所に電話して、いけなくなった、と告げ、足をかばいながら改札に引き返しタクシーを拾って整形外科へ。レントゲンを撮ってもらったら、さいわい骨に異常はなかった。靱帯が少しゆるんだようだ、という診断。歩けなくはないが、痛みがあるうちはあまり歩かないことにする。
 結果的に、足首の軽い捻挫ですんだが、精神的なダメージが大きい。階段で転ぶのは三度目だ。あの、足を踏み外した瞬間の、浮遊感がおそろしい。エアポケットにのみこまれるような瞬間。
 
 どうしてこんなに上の空なのだろう。帰り道、ゆっくり歩きながら見上げた空に、糸のように細い月があった。まだ夕暮れの茜色も残っていて、月は月というより、ただ天にすっと刻まれた光みたいで、せつなくなるくらい、美しい空だった。いつもならここでまた上の空になるところだが、足の痛みと不安でそうはならない。でも、こころがすこし慰められた。わるい日ではなかったと思う。
 
 今は、あまり本を読む気力もない。好きな本の好きなところだけ読みながら、もう寝てしまうことにする。

「家に帰ろう。そこには卵があり、チーズがあり、ワインがある。レコードもふんだんにあって、アンプのつまみをいじればベースのパートを強調することもできる。かくて私は歩みをつづける、ピチカートで。私は幸せなのだろうか? 悲しいのだろうか? なにかの謎に、意味にむかって歩いているのだろうか? あまり考えすぎないようにしよう。私はもはや、希望のごとく張りつめ、愛のごとく満ち足りた、あの基本和声のふるえにすぎないのだから。」(ジャック・レダ『パリの廃墟』)

 Aさんからもらった「ギャラリー・セプチマの三富栄治」、「STORY DE'O」という曲をくりかえし聞いている。聞くたび、何かを思い出しそうになるのは、どうしてだろう、と思う。音が何かを連れてくる、その何かを知りたくて、くりかえし聞いている。

2017年12月17日日曜日

拾い読み日記 7


 1217日、日曜日。お昼から出かける。とても寒くて、何度かくじけそうになる。
 代々木八幡へ。naniで「日高理恵子 樹の経験」。小さな空間に、大きな一枚の絵と、数名の人。他の人を気にしながら、近づいたり、少し離れたり、正面から斜めから、絵を、描かれた樹を、じっと見ているうちに、距離感や時間や場所の感覚がすっと狂わされ、いったい何を見ているのかわからなくなる瞬間があり、あれは、ふしぎな、一線を越えてしまうような感覚だった。言葉のない世界。ぼうっと少し霞んだような輪郭と、野生の植物生物の強さと繊細さを持つ画肌。ときには、線が、無数の古い傷に見える。
 
 もっと知りたくて、作品集を買って帰った。三鷹に戻って、駅前の喫茶店で本を開いた。「樹を見上げて」「空との距離」のシリーズには、見ることで、絵の中にダイブして深く深くどこまでもいざなわれてゆくような、ちょっとおそろしいような、目眩く感覚があった。ひとりでは支えきれないので、詩を読みたくなる。

 朝起きて窓をあける
 ともうそこには無限がやってきている
 空という無限が すぐ眼のまえに
 いる
 青い天空に 雲が動かない
 おそろしいような無限のただなかに
 ぼくたちはいる
 (飯島耕一「矩形という限定」)

 今うつしていて、4行目の「いる」の改行で身体に小さな震えが走った。「いる」とはいったいなんだろうか。
 
 鞄の中には宇佐見英治『迷路の奥』が入っていた。「存在の明るみは見えることと夢見ることの傷口であるかたちをとおして滲み出る」。絵を見にいくのは、ひとつの眼差しと、ある精神に、触れたいからだろうと思う。見ることで、見えないものに触れられたら、と。
 
 絵を見ることができて、画集を手に入れることができて、ほんとうによかったと思う。須山悠里さんによる、少しトリッキーともいえる案内状(何?と思った)がなければ、おそらく見のがしていただろう。日高理恵子さんは、美しいひとだった。

2017年12月16日土曜日

拾い読み日記 6


 12月16日。ときどきカラスの声が聞こえる。アパートの住人たちの声は聞こえない。よく晴れた土曜日、みな何をしているのだろうか。

 このところ何を読んでいたのか、いざ書こうとすると、指が止まってしまう。家で、街で、本屋で、図書館で、カフェで、電車で、時には食べながら、飲みながら、歩くように、話すように、息をするように、本を開いて、パソコンの前で、iPhoneで、たくさんの言葉を、読んでいた。なんだかくたびれて、読みすぎたようにも、ぜんぜん何も読めなかったようにも、感じる。
 読むことは、世界中に散らばっている自分の欠片を見つけにいくことなのだろうか、と思うときがある。それとも、自分を砕いて、あちこちに、くっつけてまわっているのだろうか。
 
「ひょっとしたら、わたしという人間はどこにもいなくて、わたしの無数のかけらたちが、選んだり選ばなかったりしたすべての可能性をそれぞれに生きて、折りにふれてどこかですれ違っているのかもしれない。」(ジャネット・ウィンターソン『オレンジだけが果物じゃない』)

 欠片であること、断片であること。ここにこそ、読むことと書くことにおいて、自分が知りたい何か、秘密のような何かがあるような気がしている。

「詩は言葉の一形態であり、それゆえにその本質上対話的なものである以上、いつかはどこかの岸辺に——おそらくは心の岸辺に——流れつくという(かならずしもいつも希望にみちてはいない)信念の下に投げこまれる投瓶通信のようなものかもしれません。詩は、このような意味でも、途中にあるものです。——何かをめざしています。」(パウル・ツェラン「ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶」)

 昨日、夫の古本屋で店番をしていたら、いい本がどんどん売れていって、自分ももっと、本を買いたい、読みたい、と思った。

2017年12月11日月曜日

拾い読み日記 5


12月11日。快晴。雲も、風もない。ときどき電車の音がする。
 
 昨日は、ひさしぶりに、ブルーノ・ムナーリの本を読んだ。あたらしい本を作るにあたって、「読めない本」や「本の前の本」について、もっと考えたい、と思っている。

「要するに,  何かを企画設計するときに心に留めてほしいことは,  人間には,  まだすべての感覚がある——たとえそれが,  下等といわれる動物のそれに比べれば,  衰退していても——ということだ。」(『モノからモノが生まれる』)

 混んだ電車でみんながみんなスマートフォンを見ていると、一瞬、こわさを感じる。両隣にゲームをしている人がいたら、なんとなく、落ち着かない。本だとそういうことはない。なぜだろうか。そのうち慣れるのだろうか。
 自分もよく使っているし、助けられている部分もあるから、あまりわるいことはいいたくないけれども、何か、はやすぎる、多すぎる、刺激的すぎる、と身体が感じるときがあるようだ。受けとめきれない感じ、とでもいったらいいのか。見ている、というよりは、見させられているみたい。あるとき話題にしたら、友人がそう表現したことがあった。
 もっとぼうっとしていられたらいいのに、と思う。本を読むときの時間の流れかたを、とても大切に感じている。
 
 目も耳も手も、いや、身体中にあるセンサーを探して使って、ゆっくり読める(はやく読めない)ような、見たことがない、おもしろい本を作ってみたい。そんなこと、できるだろうか。今は、旅のはじまりみたいな気分でいる。しらない国を歩きまわること。自分で道を見つけること。どうしてこんなところにいるんだろう、と思えたら素敵だ。

「いつかあるとき、世界はまあるくてぐるりぐるりと歩いてくことができました。」(ガートルード・スタイン『地球はまあるい』)

2017年12月6日水曜日

拾い読み日記 4


 126日。快晴。窓が光っている。磨りガラスなので外は見えない。とても静か。
 一時間ほど、文字が刷られた紙を前にして、何ができるかあれこれ考え込んでいるうちに、少し疲れてしまった。まだ製本していない紙や、在庫を仕舞っている押し入れがごちゃごちゃしてきたので、整理したい。こういうとき、あまり落ちついて本は読めない。でも、読みたいとは思う。

 このところ、アントニオ・タブッキ『他人(ひと)まかせの自伝 あとづけの詩学』(和田忠彦・花本知子訳、岩波書店)を読んでいた。声をめぐる記述に惹かれる。「声は、心の状態に合わせて変化する音波を、空間に投げかける。つまり、声というのは身振りなのだ」。
 つい先日、駅前のコーヒーショップに入って、さあ本を読もう、と思いしばらく読んでいたのだが、すこし離れたところでずっと電話で仕事の話をしている女性の声と話し方がどうしても気になって、2階から1階へ移った。自分は神経質なのだろうか。電話だったから、だろうか。その反対に、ずっと聞いていたいような声を、街で耳にすることもある。「人間の声は虹のようだ」。あちらこちらに架かる小さくて綺麗な虹の光彩に見とれながら、街をさまよい歩くのがすきだ。
 
 昨日酒席で、夢中になって一息に読んだ本はわりとすぐに手放したくなる、という話をしていたとき、同意してくれる人がいて、少しだけ安心した。でも、なぜなのだろう。夢中になって我を忘れた、そういう自分に、かすかな気恥ずかしさのようなものを感じているような気もする。同じ夢に二度とは戻れないように、同じ読書体験は決してできないから、それが虚しくて、ふたたび手にとる気がしないのかもしれない。時間をおいて再び開いてみたら、まったく違う、あたらしい、ひょっとしたらもっと豊かな体験が待っているかもしれないのに。
 またどうしても読みたくなれば、ためらわず、ふたたび買って読むことにしたい。

 タブッキの本はなかなか一息には読めない。読み進める、読み続ける気力がなくなったら、どこでもいい、どこかのページに紛れ込むこともできる。そこから別の本のページへも飛んでいける。たとえば、『レクイエム』の創作の秘密にせまる、「自分だけのものでほかの誰のものでもない小さな言葉」(「pa」「」)をめぐる文章から、ナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』が思い出され、今度あの本をどこかの古本屋で見かけたら、きっと買おう、と心に決めた。

2017年12月3日日曜日

拾い読み日記 3



 12月3日。今日やろうと思っていた作業がなかなか進まず、くたびれた。昼間、本はほとんど読まなかった。夕方になって外出するとき、本棚の前に立ち、しばらく読んでいなかった本が読みたいと思った。何冊か手にとって開いたが、どの言葉もよそよそしい。こういうときは、日記がいい。メイ・サートン『独り居の日記』(武田尚子訳、みすず書房)を鞄に入れて、出かけた。ビールをのみながら、12月2日の日記を読んだ。テイヤール・ド・シャルダン『神のくに』からの引用のあとの文章を引く。

 「われわれは、霊魂を創造していると信じられるときはじめて、人生に意味を見出すことができる。しかしそれをいったん信じたなら——私はそう信じるし、常にそう信じてきたのだが——私たちの行為で意味をもたぬものはないし、私たちの苦しみで、創造の種子を宿さぬものはない。」

 前日の日記によると、ニューヨーク・タイムズの書評で著書を酷評されたらしい。おちこんだあと、次の日の日記にこのように書き自分をいましめ励ますメイ・サートンは、すばらしいと思った。
 何か書いたり作ったりすれば、気に入ってくれるひともいれば、気に入ってくれないひともいる。大方はまったく興味を示さない。評価されたり、批判されたり、無視されたりするのは、あたりまえのこと。それはわかっていても、過剰に反応してしまうことはあるだろう。相手があまりに感情的だったり、わけがわからなかったりしたら、その人はおそらく自分ではどうにもできない何かを発散したいだけなので、相手にするのは時間がもったいない。
 メイ・サートンは書く。「私の仕事を発見してくれるであろうどこかにいる誰かの孤独と私の孤独のあいだには、真のコミュニオンがある」。わたしは特別な人間ではないから、わたしが作るものを必要としているわたしのような人間は、たくさんではないと思うが、どこかにはいると思っている。いや、すでに何人かは、出会っている気がする。勘違いかもしれないが、その錯覚だけで、充分だ。

 そういえば今朝は、少しだけアンドレ・デュブーシェの詩を読んだのだった。余白の多いデュブーシェの詩集。白の中の黒。ひとつひとつの語に、見つめられる。「書かれたとしても、それは消えるためのことば。」
 この言葉を、儚くてうつくしいものを愛するあのひとに、伝えたいと思った。

 今日の月はひときわ大きく、円く、煌々と光っていて、自分の影の濃さに驚いた。森の奥で暮らす動物たちも、もしかしたら、驚いているかもしれない。

2017年12月1日金曜日

拾い読み日記 2


 12月1日。空は灰色。今朝もなかなか起きられなかった。冬は眠い。「人間は冬眠したことがあるんじゃないかと思うんだな」と、吉田一穂はある鼎談で発言している。眠りは何の痕跡だろう、と。この言葉が好きで、ときどきその部分だけ読み返している。「眠ってるほうが本当の世界」(木々高太郎)、本当は、本当にそうなのかもしれない。



 やることはいろいろあるのに、どれもさほどいそがなくてもいいような気がして、ぼんやり過ごしてしまった。ただ、眠ることと同じように、ぼんやり過ごすことも、心身にとってとても大切なことだと思う。だから、罪悪感みたいなものは、持たなくていい。
 人間は、生きているだけで労働している。2年前の3月に高橋巖さんの話を聞きにいったとき、手帳に書き留めた言葉だ。あの日は帰りに、水中書店でヘッセの『デミアン』を買って帰った。2年以上たつのに、まだ少ししか読んでいない。もしかして、もう手元にないかもしれない。軽薄で怠惰な読者。だがそれでいいとも思う。読むことを労働にしたくない。
 「どんな人間の物語も、重要で、不朽で、神々しい」(『デミアン』)。はっと顔を上げて、こちら側に戻ってくる。あたりを見まわす。それから、また向こうにゆくのは、いつでもいい。本はいつでも、両腕を開いて迎えてくれる。

 3年前に買ったエンリーケ・ビラ=マタス『バートルビーと仲間たち』も、まだ読んでいる。5分の1くらい読んではいたが、すっかり内容を忘れてしまっていたから、また最初から読みはじめた。ようやく半分まできた。読み終えたい気持ちが芽生えたのを感じる。だから、ここでまた少し、休むかもしれない。
 「われわれは誰もが、どれほど恥ずべきこと、苦痛に満ちたものであっても、突然われわれの記憶によみがえってくる生活の断片をすくい上げたいと思っている。そして、そのためには言葉にして書き残すしかないのだ」。きっと何度読んでも、この言葉を書き留めたいと思うだろう。

 今日から、夫の古本屋の閉店時間が変わるので、夕食の時間もそれに合わせて1時間早まることになる。22時すぎから21時すぎになる、ただそれだけのことなのに、あたらしい生活がはじまる気がする。
 外が明るくなってきた。