2018年8月30日木曜日

拾い読み日記 59



 老後は、自分がこれまでどう生きてきたかということと向き合わされる時間、というような言葉を、ある本で読んだが、引越しの準備の時間にも、そういうところがあると思った。雑然としたものたちを片付けるのに、すっかり疲れてしまった。このところ、どのように暮らしてきたか、いかにてきとうだったか、始末がわるいか、一気に見せられているようで、気が滅入る。気が滅入っているのに、あちらこちらに連絡しなければならない。
 ある本、というのは、こないだ買った『なるべく働きたくない人のお金の話』(大原扁理)という本で、まだぜんぶは読んでいないが、いい本だと思う。おしつけがましさがなくていい。本でも、現実でも、おしつけがましさを感じると、逃げたくなってしまう。
 「こういう稼ぎ方・使い方について、お金がどういうふうに思うだろう?」と、お金を人格化するという発想が、おもしろかった。お金を大事にする、というのはわかるが、お金の気持ちを考える、とか、お金の幸せを祈る、とか。そうすると、お金が自分のものでも誰のものでもなくなり、みんなのものになる、という感じ方。お金がなくても不安にならない。「お金が来たいときに来ればいいし、出ていきたい時には出ていけばいい」。多くの人は、お金を(むだに)貯めすぎだと感じる。貯めすぎるのは、不安だからだ。
 
 働きたくない、持ちたくない、したくない、ことについての本をたくさん読んでいるのは、たぶん来年あたりから、自分のしごとの状況が変わってくる(なくなるか、減る)からだと思う。それでも自分で本をつくることは続けたいので、制作費をどうしよう、と思わないこともない。まあ、なるようになるだろうと思う。
 お金と同じように、本も、誰のものでもない、と思えば、あせることもない。
 本の幸せとは、なんだろう? たとえば、本がひとりのおおきな人だとして、ほかの人が気がつかないような、小さな、痒いところに指をのばして、届けば、そういうのが、いいのかなとも思う。ときどき、くすぐったりして、遊びたい。