「溝活版の時間」展にご来場いただいたみなさま、どうもありがとうございました。
活版印刷に関してはドロップアウト気味の「ヒロイヨミ社のわたし」ですが、横溝先生の膨大なお仕事に触れ、あれこれ考えさせられました。作ること。続けること。遊ぶこと。こだわること。自分の時間を生きること。
本当に自分の好きなことをして楽しそうに生きている年上の人って素敵だなと思いました。ゆったりしていて温かくて軽やかで。そばにいるだけでほっとします。わたしもそういう人になりたいなと思いました。
今は、IONIO&ETNAの狩野岳朗さんと『LETTERS』という本を作っています。ひたすら印刷しています。(活版ではありません…)
写真は、左がフロイトの手紙、右がドビュッシーの手紙です。高円寺のながれほしの路で開催中のオテガミ展でまもなく販売しますので、どうぞよろしくお願いいたします。
そしてこちらは「溝活版の時間」の搬入中に発見した、60年代後半の年賀状の表面に書かれていた「けんちゃん」の字です。お父さんが印刷した年賀状を、おばあちゃんに送ろうとしたのね、おりこうなけんちゃん。そんなけんちゃんももう、50歳くらいになるのかしら……としみじみしていたら、すこし涙が。なぜでしょう。「家族」っていいなあ、とそんなことを素朴に思ってしまったのか。いや、ただ単に、時が流れること、年をとることを、せつない、さびしいことだと思っただけのような気もするし。わかりませんけれど。
あなたの長くのばした、すくない髪の毛。あなたの眼鏡。あなたの高い鼻。やせた、ながい脚。大きなあなたの手。いつもつめたかった。暑いときでも。そんなあなたを憶えています。
(ナタリア・ギンズブルグ『モンテ・フェルモの丘の家』須賀敦子訳)
これは、くりかえし読んでいる、93通の手紙で構成された小説の、最後の部分。一度はともに時間を過ごした二人が、別れ、それぞれの人生を生きてきて、それはもうそれぞれにたくさんのことがおこって、いま、ふたたび会うのかどうか、というところ。「死ぬほど会いたい」けど、会うのがこわい、という男。「われわれが、生きてるうちか死んでからか知らないけれど、再会してわるい理由はなにもありません」という女。……会うのかな。会わないのかな。
いくら時が流れても、記憶の中の人は変わらない。あのときの、眼。手。声。髪のにおい。後ろ姿。綺麗な函に入れて、大切に仕舞ってあるのです。だから、会っても、会わなくても。
追伸 名古屋でananas pressの都筑晶絵の展示「十一紙」開催中です。宮下香代さんと二人展です。どうぞよしなに。