たとえば一枚の紙を捲るように、くるんと球体の裏側に廻ってみる。水の季節の息苦しさから逃れて。この部屋の窓の外にも、ほんとうは、海が広がっている。「海鳴りは 憑いてやまないものとして/天地とは 覆るのがつねだと心得て。」(エリザベス・ビショップ「サンドパイパー」)
2025年6月28日土曜日
tweet 2017/6/28
たとえば一枚の紙を捲るように、くるんと球体の裏側に廻ってみる。水の季節の息苦しさから逃れて。この部屋の窓の外にも、ほんとうは、海が広がっている。「海鳴りは 憑いてやまないものとして/天地とは 覆るのがつねだと心得て。」(エリザベス・ビショップ「サンドパイパー」)
2025年6月27日金曜日
tweet 2014/6/27
J・ウィンターソン『オレンジだけが果物じゃない』の原書が届く。この本は、この町で最初に買った本。この言葉がとても好きだ、この人が好きだ、と思った。I want someone who will destroy and be destroyed by me.
買ったときのレシートもはさんである。ときどき開いて確かめる。壊れた自分の欠片が、本の中で生きている。ときどき会いたくなる。
2025年6月26日木曜日
tweet 2017/6/26
本をひらく。ノドがあらわれる。一筋の裂け目。白いふくらみ、なだらかな線。ひとの臀部の魅力に通じる。「回転軸」は隠されている。とじられた本は立つことを命とする。(長く積まれた本は歪む。)長い歩行の途上にあるものを、そっと呼びとめ、束の間の対話をする。
2025年6月25日水曜日
tweet 2017/6/25
午前3時に帰宅。はっと気がつくと掛け布団の上にねていた。ワンピースのままだった。湿気が多くて、ひんやりして、鰭に退化してゆきそうな足指に触れながら、打ち上げられた天使たちをみている。
2025年6月24日火曜日
tweet 2012/6/24
言葉と声に溺れないようにしなければ、と思うけれど、もっと溺れたい、とも思う。読むときも書くときも話すときも聞くときも。うつくしい響きの海のなかで。みなもに揺れる光に惑わされて。
2025年6月11日水曜日
拾い読み日記 322
梅雨空はあわい鉛色。たっぷり水をふくんだ墨の色。町を覆いつくす憂鬱な灰色に彩りをあたえているのはシジュウカラのさえずりで、数日前からその声を耳にしていた個体が、今朝、隣家のアンテナにとまっているのを見かけた。近くの木にいるらしい別の個体と鳴き交わしている。あのようにちいさなからだから発せられる音とはとても思えず、しばらく眺めていても、その不思議は消えない。距離感の問題かもしれない。あの場所に存在する小さな「もの」と、ここに存在するくっきりした声の関係が、うまくつかめない。
数日前に読んでいたミシェル・レリス『オランピアの頸のリボン』をひもといて、とある箇所をさがしながら目にとまった別の文章を読んでいたら、またあの鳥があのアンテナでさえずりはじめた。レリスの言葉と鳥の声がつかのま重なり混じり合う。詩の一行に異なる言語が不意に挿入されたような、それはいきいきとした違和感だった。
レリスは、書くことを、投縄で獲物を捕まえることにたとえる。「そして、この投縄がとらえるのは、わたしの外部にしろ、内部にしろ、つねになにか野生的な(生で、手つかずで、そのうえ御しがたい)ものであるのではないだろうか?」(下線部は傍点)
2025年6月7日土曜日
tweet 2013/6/7
二日つづけて満員電車に乗って印刷所に通い刷り出しに立ち会ったらもうくたびれはてて、帰宅してすこしお酒を飲んで、すぐに寝た。10時間くらい。一昨日、湯立坂で聞いた親子の会話を思い出す。「なにいろのあじさいがすき?」 おかあさんに聞かれて、男の子はたしか、ピンク、と答えただろうか。
2025年6月5日木曜日
tweet 2014/6/5
「コーヒーカップ」、と入力しようとして、うっかり、「珈琲河童」になる。作業中断。珈琲河童のあたまの上のお皿はやっぱり、コーヒーカップ。珈琲がなくなったら、しんでしまう。もしくは、ねむってしまう。梅雨入り。珈琲をのんでもねむたい。
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