2023年9月1日金曜日

拾い読み日記 291

 
 おととい泳ぎにいって、今日もまた泳ぎにいった。今日は、筋トレにいくつもりだったのに。
 20年近く泳がないでいたのに、なぜこんなに頻繁に泳いでいるのかといえば、窓からプールが見える、たぶん、ただそれだけの理由で。こんな単純さで、すべてのことは進んでいく。進んでいくとよい。

 プールから、ときどき、窓を見た。もうひとりの自分が、こちらを眺めている。涼しい部屋で、お茶をのみながら。水のなかにいるたのしさも、水底の光も、泳いだあとの気だるさも知らずに。手で、足で、ひっしに水をかけば、ことばがなくなる。あたまが空になる。その、たとえようもない、自由な気分も知らずに。

 Think of the longest trip home.
 Should we have stayed at home and thought of here?
 Where should we be today?

 長い家路を考えてごらん。それとも ずっと
 家に居て ここを想った方がよかったかしら?
 今日 私たちは どこにいよう?

 エリザベス・ビショップの「旅の問い」(小口未散訳)。午前中、どうしてだろうか、旅先にいるような心のはずみを感じて、読んだ詩。

 水からあがって着替えているとき、ちいさな男の子の声を聞いた。「顔つけると、たのしいんだね」。そうだよ、と若い母親がこたえる。はじめて水に顔をつけることができた子どもに、またひとつできることがふえたね、という。

 その子どもの声が、しばらく胸のなかで響いていた。それは、この夏に聞いた、もっともうつくしい声ではなかったろうか。

 夕方のプールに風が吹いて、からだが冷えた。夏が終わるんだなあ、と思った。