おととい泳ぎにいって、今日もまた泳ぎにいった。今日は、筋トレにいくつもりだったのに。
20年近く泳がないでいたのに、なぜこんなに頻繁に泳いでいるのかといえば、窓からプールが見える、たぶん、ただそれだけの理由で。こんな単純さで、すべてのことは進んでいく。進んでいくとよい。
プールから、ときどき、窓を見た。もうひとりの自分が、こちらを眺めている。涼しい部屋で、お茶をのみながら。水のなかにいるたのしさも、水底の光も、泳いだあとの気だるさも知らずに。手で、足で、ひっしに水をかけば、ことばがなくなる。あたまが空になる。その、たとえようもない、自由な気分も知らずに。
Think of the longest trip home.
Should we have stayed at home and thought of here?
Where should we be today?
Should we have stayed at home and thought of here?
Where should we be today?
長い家路を考えてごらん。それとも ずっと
家に居て ここを想った方がよかったかしら?
今日 私たちは どこにいよう?
家に居て ここを想った方がよかったかしら?
今日 私たちは どこにいよう?
エリザベス・ビショップの「旅の問い」(小口未散訳)。午前中、どうしてだろうか、旅先にいるような心のはずみを感じて、読んだ詩。
水からあがって着替えているとき、ちいさな男の子の声を聞いた。「顔つけると、たのしいんだね」。そうだよ、と若い母親がこたえる。はじめて水に顔をつけることができた子どもに、またひとつできることがふえたね、という。
その子どもの声が、しばらく胸のなかで響いていた。それは、この夏に聞いた、もっともうつくしい声ではなかったろうか。
夕方のプールに風が吹いて、からだが冷えた。夏が終わるんだなあ、と思った。