手術するかな、どうなるかな、とぼんやりかんがえながら、窓のむこうの、プールで遊ぶおとなやこどもを眺めていると、うらやましいようなまぶしいような気持ちになるが、しかし自分だって、昨日の夕方には、あそこで泳いでいた。
4日前には、夫と泳ぎにいった。水泳部だった夫は、クロールでかろやかに泳ぐ。海水パンツがとても似合う。水泳帽を取ると、長い、ぬれた前髪が顔にかかって、なんだかいい感じ。ふだんの5割増しでかっこいいよ、というと、あいまいな表情で、胴が長いから海パンが似合うんだ、という。たしかに、彼の胴は長い。目に見えているより、長い。毎朝、その背中に薬を塗っているから、よく知っている。
手術するような病気も、全身麻酔もはじめてだから、不安のあまり、たくさん情報をあつめてしまって、つかれた。その手術は、医者がいうように、めずらしくない、むずかしくない手術のようだった。体験記もいろいろと読んだ。それでも、おそろしいものはおそろしい。おなかに穴を開けられるなんて。
決して、医者を信用していないわけではない。担当医は、30代だろうか。声は大きいが、威圧感はない。重みもない。どちらかといえば、いいひとだと思う。あのひと、いいひとなんだけど、声が大きいのよね、とか、いわれそうなタイプ。手術するかどうか、迷っていたら、とりあえずは手術のためのくわしい検査を、という流れになる。
ずっと読みすすめられなかった上田三四二『うつしみ』を手にした。病を得て、死を覚悟して、大きな手術を受け、その直後のくだりが、とくに心に残り、しかし理解できるような、できないような、つかみがたさがある。口からではなく、点滴によって潤されるからだについて、著者は、つぎのように書く。
(……)要するに私はこの直接的な補液の手段に——そのような手段によって養われながら身動きもならず横たわっている自分の身体に、生物というよりもむしろ物理的な自然を感じたのである。
ひとりのからだとは、装置によって生かされる、ひとつの物であるということ。自分のからだをまるごと人にゆだねることができたら、そのことが、実感として、わかるのだろうか。そうしたらなにか、変わるだろうか。自分のからだを人にゆだねる、というのは、自分のからだからの解放であり、自分のこころからの解放でもあるのだろう。つかのまであったとしても、それは、こころにとらわれ、からだのうちに閉ざされたものにとっては、大きな体験である。恐れのなかに、すこしの好奇心がまじりはじめたのは、この本のおかげである。
ひとりのからだとは、装置によって生かされる、ひとつの物であるということ。自分のからだをまるごと人にゆだねることができたら、そのことが、実感として、わかるのだろうか。そうしたらなにか、変わるだろうか。自分のからだを人にゆだねる、というのは、自分のからだからの解放であり、自分のこころからの解放でもあるのだろう。つかのまであったとしても、それは、こころにとらわれ、からだのうちに閉ざされたものにとっては、大きな体験である。恐れのなかに、すこしの好奇心がまじりはじめたのは、この本のおかげである。
夫に、うまく泳ぐコツをいくつか聞いた。水を掻くときに、のばした手が曲がらないようにすること。進む方向に指をぴんとのばして泳ぐと、はやく進むそうだ。一本の棒きれになった気持ちで泳ぐといいよ、という。棒きれの気持ちで泳ぐことは、むずかしいが、おもしろくて、くたくたになるまで泳いでも飽きない。