日記用にあたらしいブログをつくろうとしたのだが、レイアウトがどうしてもうまくいかないので、あきらめて、ここに書いていくことにする。買った本、読んだ本の覚え書きとして。
11月28日、午後から表参道へ。青山ブックセンターで松村圭一郎『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)を買う。書き出しはこうだ。「世の中どこかおかしい。なんだか窮屈だ」。きっと、自分もそう感じているのだと思う。香港から帰ってきて、東京は、あまりにクリーンで、きちんとしすぎているように感じていた。九龍あたりの、ごちゃごちゃした感じがとてもすきだ。ぶらぶら歩いていると、自分が街に解き放たれていく、そんな感じがする。もちろん、他の人の話す言葉や、看板の文字が読めない、ということも関係していると思う。aと、香港旅行記のようなものをつくろうと思っている。
そのあと巽堂書店へ。先週も来たけれど、12月半ばで閉店とのことで、また棚を見ておこうかなと思った。『テイヤール・ド・シャルダン著作集』を何冊か、函から抜き出して、買おうかどうしようか迷ったが、なんとなく読めないような気がして、そっと戻した。片山敏彦訳『ハイネ詩集』と、富士川英郎訳『リルケ詩集』を買う。いずれも新潮文庫。それからW.S.モーム『読書案内—世界文学—』(西川正身訳、岩波新書)。偶然会ったKさんと一緒に店を出ると、均一の棚にあったE.ファージョン『ムギと王さま』(石井桃子訳、岩波少年文庫)を手にとり、「これ買わないの? じゃあ僕、買おうかな」という。そういわれると、買われるのは惜しいような、急に欲しいような気がしてきたので、それも買った。ずっと前、新しい版のを持っていたはずだが、今は手元にない。たしか、「作者のまえがき」以外、あまり読まなかった。今度はまえがき以外も読みたい、と思いながら、またまえがきを読んだ。
「日光がさしこんでおどった、この部屋のすすけたガラスまどをみがいたり、床につもった、むかしのちりをはいたりするために、女中がほうきと雑巾をもってはいってきたことは、一度もありません。あのちり、ほこりがなかったなら、「本の小部屋」は、あのなつかしい部屋ではなかったでしょう。星くず、金泥、花粉……いつかは土の下にもどり、ふたたびヒアシンスの形をとって、大地のひざから咲き出すちりあくたたち。」
三鷹に戻り、夫といきつけのお店で一杯。帰り、どこか本屋にいきたい、というので、文教堂書店に立ち寄る。今日はもう買わないつもりだったけれど、矢部太郎『大家さんと僕』(新潮社)を少し立ち読みしたらおもしろくなってきたので、買った。寝ようと思ったがやめらなくなり、布団の中で、ぜんぶ読んでしまう。「この栄螺(さざえ)は私なんですって」に、ぐっときた。チャーミングなふたりの関係。友だちっていいなと思う。なんとなく、『トムは真夜中の庭で』が読みたくなる。矢部さんは、今の大家さんの中に、かつての、自分と会う前の、ずっと前の大家さんの姿も、見ているのだろう。「おばあさんは、じぶんの中に子どもをもっていた。私たちはみんな、じぶんのなかに子どもをもっているのだ」(フィリパ・ピアス)。